理解される喜びと人間の”関数”

あけましておめでとうございます!あっという間に2020年ですね~!

半年くらい更新が止まっていたこのブログも、年末年始には非常に筆が進んでおります。

前回の2つは、読んでくれた友達に「意味わからないGIFが良い」という感想や「IMDbでいえば8.8」とダークナイト級の評価をもらえたので、書いてよかったなあと思っています。

ブログを書くのって、やっぱり気が乗る、乗らない時があって、乗ってる時はどんどんと手が動いて考えも回るので、こういう時にしっかり書いておこうと思って、今日もコーヒー片手に筆を取ります。

今回もテーマとして「人を理解すること」そして「人に理解されること」を扱っていきたいなと思います。

自分はイタいやつ

絵に書いたようなイタさがカッコいい。

これまでの自分、特には高校生までの自分を思い返すと「イタい人間」だったなと思います。イタいにも色々と種類がありますが、自分のイタいは「邪気眼」に分類されるでしょうか。

※邪気眼:自らをアニメなど物語の登場人物だと考えるような空想全般

人と違う世界を生きている人間(という設定)で、登場人物的にいえば、主人公たちのクラスに突然転校してきたどこか秘密を持った実力者キャラ的なポジションに居たかったのかなと。

なんで、そんな感じになったのか、現在になって冷静に考えればすごく簡単で、中学生までは勉強なんて超イージー、先生にも気に入ってもらえて「世界は自分を中心に回っているんだッッ!!!」くらいのテンションだったところ、高校入学によって同じような人間が1つの学校に集まったことで「あれオカシイな・・・」と自分は別に大したことが無い人間だと自覚してしまった訳です。

他の人との違いを見出したい

とんでも無いミディ=クロリアン値を持つ「The Chosen One」であると思っていた自分が、一介のトルーパーに過ぎないことを知ってしまった時の衝撃は計り知れない訳です。

そうなると、自動的な防御反応として「他者との違いづくり」に勤しむようになります。他の人と違う何かを見出すことで、自分のプライドを保とうとします。

これには、人によって色々な反応の出方があると思います。

  • 勉強で戦い続ける
  • バカなことをして目立とうとする
  • 部活で頑張る
  • 人と関わるのを辞める
  • 成績を最下位で振り切る
  • 学校に行かなくなる

あたりが、多いのではないでしょうか。

私が選択したのは下の2つです。不登校気味になり、勉強もしなくなりました。でも、ところどころ「やるところはきちっとやる」みたいな感じは出していました。意図としては、「どこか読めないが、何か隠し持っている者」みたいなアイデンティティが作りたかったんだろうと。

定期テストでは赤点を叩き出し続け、返却の時に社会の先生から笑顔で「かける言葉も無いな☻」って言われたのは今でも覚えてます。それは当時の自分からしたら、自分の存在価値を肯定する「嬉しい言葉」だったでしょう。

他者から理解される=アイデンティティを失う

そんな神秘的(?)なアイデンティティを築こうとしていた自分にとって「他者から理解される」ということは、神秘が明かされてしまい「自分のアイデンティティを失う」ということでもありました。

せっかく築いた自分らしさを守るために私はどうしたか。

すごく簡単です。「本心を外に閉ざす」ことです。

本心、自分が本当に考えていることを外に出さなければ、誰も自分を理解することは出来なくなるのです。誰にも理解されないことで、自分の「どこか読めない何か隠し持っている者」というアイデンティティは保持されます。

そして「本当の自分を見せていない」という行動事実は保険にもなります。実際に理解されていたとしても「だって自分のこと見せてないし!理解される訳ないやん!wwww」という魔法のコトバで自己は保たれます。

こうして高校の頃の自分は、構造的にイタくあり続けました。

対組織の中と対個人は少し違った

ところで、学校という組織社会での自分のキャラクターと、友人との1on1でのキャラクターは違ったと思います。直感的に波長が合うと思った相手にはすごく自然だったなと。変なアイデンティティとか考えず、思うままに接してた記憶です。

組織の中でどのような自己であるかと、相手に対してどのような自己であるか、は別のモノとして捉えられていたようです。組織生活も結局は個人との関わりの集合体なので、その境界線をどのように引いていたかは分かりませんが、区別はされていたように思います。

それはそれで良かったです。素敵な友達がいなかったら、きっと卒業できていなかったと思うので、当時関わってくれた、そして今でも関わってくれる友人には感謝しかありません。

“べき論”さんいらっしゃい

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How It “Should” Have Ended.

人は新しい組織・枠組みの中に入ると、その中での自分の立ち位置、アイデンティティを確立しようとします。高校を卒業して、大学に入学した私は、再度アイデンティティの確立に苦労します。

高校時代は「どこか読めない何か隠し持っている者」に居場所を求めた自分が、次に自分に居場所を求めたのは「べき(should)論」です。

モンスターの巣窟

私は大学生でアイセックという国際NPO団体に所属しました。1年生の4月、入会当時そこにいる先輩・同期(自分が2年生以降は後輩も)は狭い世界を生きてきた自分としてはモンスターばっかりでした。

起業家、日本語より英語の方が得意な帰国子女、ハッカー、高校生で省庁インターンとか、そんなん世界があるんか!みたいな人が周りにいる。

そういう人たちの主要共通プロトコルは基本的に「論理」です。まあ要するにみんな頭が良くて論理に強い。そんな中で自分みたいな普通の学生が活動をすると、論理に叩きのめされることになります。

先輩からも同期からも詰められ、さあどうしたものか。。。

堅牢な”べき論”と”正論”で身を守る

論理に叩かれる世界に生きるようになった自分が、自分自身を保つために次にとった防御策は「”べき論”と”正論”の上に生きること」でした。

「○○、△△であるから、私は■■すべき」

「■■することが正しい」

“べき論”とは義務、そして論理的に考えて「したほうが良い」と思われる結論です。そして”正論”とは論理的に(は)正しいことです。それらを武装して、自分は防御力を高めていきます。

べき論や正論に反論していくことは難しいです。

「だって正しいんだからさ!論破できるものならしてみてくれよ!」

正しく生きていれば、それを批判できる人はいない、と思ってました。もちろん初めから上手く行く訳など無く、その過程でたくさんボコボコに叩かれてはいましたが、「正しいこと」「べき論」に沿うことは正しいと思っていました。

友達からも「正論ウザい!!!!!」って言われてましたが、まあそれはそれで楽しんでいました。今ではいい思い出です。いや、本当にごめんなさい。

“べき論”の功罪

凄く皮肉な話ですが、論理から見を守ろうとしていた自分は、”べき論”ベースで生きてきた結果「論理に呪われてしまった」のです。

つまりは、“べき論”に沿わない自分を上手く外に出すことが出来なくなってしまいました。本当はこうしたいと思っているけれど、それは論理に照らし合わせると「する”べき”ではない」からやらない、というような。

さらには対外的にも、本来の自分はそうではないのにそうだよね、って思われるようになってしまいました。結局相手は外に出ている部分からしか判断ができません。なので、べき論的な言動しか外に出ていなければ、そういった人間として捉えられてしまうのは当然のことです。

“べき論”に沿った生き方は、自分を能力的には成長させてくれましたが、人から本来の自分を理解してもらえない、という結果になりました。

素敵な人間関係

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ジワる

ある一面でしか人と付き合えていないというのは、いうなれば「黒ひげ危機一髪」みたいなもので。(※これは基本的にはプライベートな人間関係の話になります)

今刺している剣だとまだ飛んでいない(関係性が崩壊していない)けれど、次の剣(まだ見せていない面)を刺すと飛ぶかもしれない、という爆弾のような感覚です。

「自分のことをどこまで理解してくれた上で一緒にいるか」というのが、人間関係の深さの1つの表し方だと思っています。

  • 家族は自分の小さい頃から大きくなるまで、ダメな自分から頑張っている自分まで知ってくれた上で一緒にいるから、すごく信頼できるし、安心できる。
  • 本当に信頼できる友達には、自分の悪い面もたくさん見せているし、時には喧嘩だってする。それでも一緒にいるというのが相互に仲の良さを証明している。

ある一面しか出していない関係性には「自分の本当の部分を知ってしまったら一緒に居られないじゃないのか」という思いがつきまといます。いつか違う自分を見せた時に「黒ひげ」が飛ぶのではないかと。

そして、関係性を優先して、相手に期待する自分を見せ続けることにもなります。爆発を恐れて、差し障りの無い自分を演じます。

私の場合には、“べき論”の自分と付き合ってきた友達に、本当の自分を見せた時にはどうなってしまうのでしょう。人間関係は瓦解しないでしょうか。

素晴らしき藤原書紀
人間関係、ドーンだYO!!!

“べき論”ペルソナの限界

大学生から社会人1年目までは”べき論”と”正論”的な生き方を続けていましたが、途中であることに気が付きます。ペルソナ(仮面)が暴走して、本来の自分から主導権を取ってしまい、本来の自分が何をしたいのかがよく分からなくなりました。

本来の自分に沿わない行動、選択をし続けていると限界が来ます。“べき論”と”正論”に運転を任せていると、納得・満足が出来なくなるのです。

上には上がありますから、何事にも完璧っていうことは基本的にはありません。現在の期待されたことに対して、しっかりミート出来たとしても「先輩だったらこうしてたはず」とか「ここはもっとこう出来た」とか、セミオートで浮かんできちゃう訳です。欠乏ばかりが目につく「足るを知らない」モードです。

成長という面では非常に重要なのですが、普通にキツいです。そこである時限界を迎え、もうそのペルソナを剥がさなければとなりました。苦しいペルソナを保つことよりも、素朴な本来の自分をさらけ出す方が良い、という考え方に変化しました。

「隠すから表現するへ」考え方の転換

限界を迎えたことで、自分の生き方・人との関わり方が見直されます。

理解されないより、理解されるの方が良い

これまでの自分は「理解されないこと」によって、自分のアイデンティティや自分の意義、特別感を保ってきました。しかし、アイデンティティとか人との違いに存在意義を見出すとか大したことじゃないなと。別に「普通で良いじゃないか」ということに気が付きます。

そんなことよりも「理解される喜び」の方がなんと大きいことか自分のことを理解してもらう、共感してもらう、自分という人間そのものを好きなってもらえることの方がどれだけ幸せか、ということが分かりました。

「高坂麗奈 gif」の画像検索結果
特別にならなくて良い。

理解される努力をするのは自分

そして「理解は相手にしてもらうもの」という勘違いがありましたが、それは逆。というか、責任は常に50/50です。

出してもいない自分を理解してもらう、っていう方が無理な話で、理解してほしいのであれば、相手に期待するだけじゃなく、自分でしっかり自分を表現しないと。

「誰も僕のことを分かってくれない」という悲劇のヒロイン的思考は、要するに本当の自分を出して傷つくことが怖いということで。それは極めてナチュラルな反応だと私は思いますが、もし本心として相手に理解してほしいのであれば、やはり外に出す努力はしないとな、って思います。

ややズレますが、理解ができない人間って、相手側として意図をしていなくても、やはり近寄りがたくなるんじゃないでしょうか。結局は自分という人間を外に出して、相手にとって裏表が無いことが分かるのがお互いにとって、ハッピーな結果になるじゃないでしょうか。

理解をしてもらうための構造

そんな前段も踏まえて、人に理解されるためには何をしたら良いのか、を考えてみます。

基本的に上記の図のように

  1. 自分の中で考えている/思っていること
  2. 自分の外に言動として表現してること
  3. 自分について相手に理解されること

というファネル構造になっています。ファネルというのは「自分の考えている/思っている以上のことは外に表現が出来ず、外に表現してないことは相手に理解されない」ということを示しています。

1. 自分の中で考えている/思っていること

これが母集団になります。恐らく人によって1の量は大きく違います。色々なことを考えている人もいれば、特に何も考えていない人もいます。

知識や経験に比例して考えることの深さ・幅が増えると思いますので、ある程度は年齢と共に大きくなっていくと考えています。

2. 自分の外に言動として表現してること

「考えている/思っていることの内、それを言葉や行動としてどの程度表現しているか」ということです。

3. 自分について相手に理解されること

そして最後は「外に表現された内、どの程度相手に理解されているか」ということです。ここが増えると嬉しいよね、というのが今回考える目的です。

具体的に何をすれば理解されるのか

具体的にファネルの次フェーズへの通過割合を増減する要素に砕いてみました。それぞれの要素を増減させることで、最終的に「相手にどれだけ理解されるか」という点が変わってきます。

⓪自分の中にあるもの

これは実態は無いもので、言うならば「ジョハリの窓の総和」でしょうか。自分が認知していない部分も含めて、自分が持ちうる全ての材料です。

この内、次の「①自分の中で考えていること」に進められるのは、A.認知力を持って、思考の材料として「チャンク(塊)」に出来たものだけです。

「パクノダ 石」の画像検索結果

これは自分の理解ですが、パクノダ先生が言うように、人間の頭の中には「原」といえるような情報の集合があって、それは刺激によって引き起こされ、チャンク(塊)に出来たものは取り出すことが出来ます。

逆にチャンク化出来ない情報とは、断片的な情報で塊にすら出来ない単なる原子、みたいもので、頭にはあるのだけれど思考に載せられない(扱うことが出来ない)ほど小さい(または奥深くに沈んでいる)ものと理解しています。

A. 認知力は、例えるならば数多の星から「星座化する能力」です。

この能力はあまりトレーニングは出来ないかなと思っていて、それこそHSP(Highly Sensitive Person)みたいに非言語情報を含む外部からの刺激をどれだけ自分の中に取り込むか、そしてそれをどれだけチャンク化にできるか、みたいな能力です。

そういう意味では語彙が多い人(星座の例で言えば、そもそも動物・モノを知っていること)と、現象を一括りできる能力(星同士のつながりを何かに見立てられる力≒ひらめき力)がある人は、この能力が高くなるかもしれません。

①自分の中で考えていること

この後は「ドーンだYO!」が待っています。

認知して、思考の俎上に乗っけられたものが①自分の中で考えていることになります。この中から「B.表現の意思」「C.言語化力」で外に出るものが決まります。

B. 表現の意思

思っているけど外に出したくない、ということもあります。外に出す・出さないは自分の意思で決められるので、まずはそこで次に進むもの・進まないものが分かれるはずです。

私の高校・大学時代で言えば、このB.表現の意思によって、自分本来の考えを外に出さないようにキャップをかけていました。自分で決められるので、ここの影響力が一番大きい気がします。

「表現したいけど怖くて・・・」とか、テクニカルな解決が難しい領域でもあるので、乗り越えたい場合は時間がかかると思います。この要素にアプローチするには内面的な変化を促す必要があります。

C. 言語化力

「頭の中で考えた伝えたい内容を同じように外部に表現できる能力」です。以前このブログで書いた以下の記事が、まさしくかと思います。

わかった気にならない技術「言語化」とはなにか

ここでの言語化は、

言いたいことをまとめる ⇒ 論理を構造化する ⇒ 論理ルールに言葉を当てはめる ⇒ しゃべる(書く)

という順序になります。

まず前提、自分に嘘をつかない姿勢と、能力としては、チャンク同士をつなげる能力、論理力(物事の関係性を正しく捉える力)、語彙力などが挙がります。

②自分の外に表現していること

そうして言語化されたものは「②自分の外に表現していること」になります。

この「②/①」の割合(例えば、10考えている内6を外に表現していれば6/10 = 60%)が100%に近いほど、自分のことを表現できている、ということになります。(あくまで量的にですが)

いわゆる「裏表の無い人」と言われるのが、この割合が100%に近い人のことを言うでしょう。

色々なことを考えているけれど、外に表現していない/できない、という人はこの割合が小さくなっています。つまり自分のこれまでは、この割合が小さかった、ということになります。

こうしてようやく、自分以外の他者に理解が可能な形式になります。しかし、表現したことが全て相手に理解されるとは限りません。

ここでは2つの要素が制約をかけます。

D. 表現力

※正確には、もう自分の外に出てしまっているので、時系列としてはここに表現力があることはおかしいのですが、努力のフェーズとして分けるに足る重要性があり、相手の理解力と表現力は密接な関係があるのでここに位置づけます。

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キング牧師の「I hava a dream.(私には夢がある。)」のスピーチは多くの人の心を動かしました。

同じ結論(What)であっても、どのように伝えるか(How)によって、相手に理解されるかが大きく変わります。

言葉を超えれば、媒体選定やシチュエーションなども大きな要素になっていきますが、通常の人同士の会話などに絞れば、レトリック、言葉選び、ストーリー構築、ジェスチャー、ロジカルシンキング、とかが関わる部分です。

E. 相手の理解力

最後は相手要因です。自分の表現が伝わるかは、やはり相手の努力も必要です。どんなに雄弁で明瞭な素晴らしい話であっても、相手が赤ちゃんでは理解されません。きちんと相手の理解力がある必要があります。

分けると2つで「姿勢」「理解能力」です。能力あっても話を聞く姿勢がなければ頭に入ってきませんし、姿勢があっても理解する力、情報処理能力が無ければ伝わりません。

能力はこちらからでは、短期的にはどうしようもないので、姿勢をちゃんと創ってあげることが大切かなと思います。具体的には、場作りとか、自分の本気度を伝えることです。

③相手に理解されること

こういった流れを経て、ようやく相手に理解がなされます。ここを増やしたいんのであれば、上述の要素を上げたりすれば良いわけです。

ゴール指標は2説あって、

  • A. ③/①の割合が多いければ嬉しい(指標:割合)
  • B. ③の絶対量が多ければ嬉しい(指標:数値)

です。私としては①を支持しています。理解されている部分より、されていない部分の存在が気になった経験があるので、絶対量が小さくてもその全てを理解されている方が嬉しい気がします。(まあ、結局は測れないので感覚的な話です)

相手にわかってもらうべきは”関数”

これまで話してきたのは、分かってもらう「量的」なことでしたが、最後に何を理解してもらえば、よく自分を理解してもらうことが出来るかという「質的」な内容に触れたいと思います。

結論は、一言で言えば「関数」を理解してもらうことです。

二つの変数 x と y があり、入力 x に対して、出力 y の値を決定する規則(x に特定の値を代入するごとに y の値が確定する)が与えられているとき、変数 y を「x を独立変数 (independent variable) とする関数」或いは簡単に「x の関数」という。

ー Wikipedia「関数 (数学)」 より

私は関数というのは「何かを入れれば(インプットすれば)何かを吐き出す(アウトプットする)仕組み」と捉え「人間も関数の1つである」と考えています。人に話しかければ、無反応も含めて、何かしらの反応が返ってきます。

上記の図のように“相手の関数を理解する”とは「なぜ相手はAに対してBを返すのか」という仕組みを理解することになります。

なぜ関数を理解することが大事か

人間関係における安心感とは「自分の期待通りの行動を相手に期待できること」ではないでしょうか。

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「一緒に帰ろう!」と自分がいえば「もちろん!」と相手も言ってくれると期待しているから、安心して誘えるわけです。その期待と結果の繰り返しが、さらにその期待を強固なものとし、人間関係を作っていきます。

もし「一緒に帰ろう」に対して「いいよ!」と「無理!」がランダムで訳も分からず返ってくれば不安になります。不安になると、自分から近づいたりアプローチすることには消極的になるでしょう。

基本的に人は変化や奇想天外な結果はあまり好みません。びっくり箱を開けるのはみなさん緊張するでしょう!

ここで、もし「いいよ!」と「無理!」に規則性が見えたらどうでしょうか?

例えば、月曜日に誘って「ごめんなさい、月・水・金曜日はバイトがあるから急いで帰らないといけないんです」と言われたらどうでしょう。そしたら不安にはなりません。

「じゃあ、火・木は誘っても大丈夫だ」と相手に対する期待を適切に設定し直すことが出来るからです。

関数を理解するとはそういうことです。行動背景、なぜそのような言動を取るのかのロジックが見えると、相手を余計に不安にさせたり、傷つけたり、ダメージを負わせてしまうリスク(不確実性)を軽減でき、安心して関係構築・継続することが出来ます。

どのように関数を理解するか

次にどのように相手の関数を理解するか、というアプローチ方法についてです。大きく2つの方法を取ることが出来ると考えています。

①帰納的アプローチ

1つ目は「帰納的アプローチ」です。自分のインプットに対して、どのようなアウトプットを返すか、の繰り返しによって帰納的にパターンを導き出し、相手の関数を読み解く、という方法です。

付き合いが長い人、若い頃からの付き合いの人は、このパターンで関数を理解し、関係性を深めていることが多いと思います。良いところは、別に技術も何も要らない所だと思います。一緒にいて、色々やりとりを繰り返しているだけで、自然と相手の関数が見えてくるんじゃないかなと。

難点としては、ある程度時間がかかるという点です。パターン化に足るだけのある程度のやり取りが無いと、関数理解の精度は低くなります。また、規則性が見えにくい相手もいるので、そういう相手はこの方法だと結構大変です。心折れます。

②直接的アプローチ

2つ目は「直接的アプローチ」です。言い換えると「もう面倒くさいから関数を相手に直接聞いちゃえ!」です。

では「関数を聞く」とはどういうことかというと、下記のような関数の構成要素を把握することだと捉えています。

アウトプット(意識・無意識的言動)

これまでと変わらず、外部に出ている言動のことです。それが意識的か、無意識的かという2種類があります。アウトプットから関数を予測するのが①帰納的アプローチでした。

価値観

「何に対して価値を感じるか」というものです。価値観を分かりやすく把握する二項対立軸でいうと、善悪、損得、正誤、勝ち負け、好き嫌い、快不快、それぞれ何をそう定義するか(Ex. 何が善で何が悪か)、という点と、そのうち何に重きを置くか(Ex. 損得は重要だが、勝ち負けはどうでも良い)などでおよそ良いかと。

ぶっちゃけ思想との切り分けは難しいので、これくらい単純で抽象度が高い方が自分としては扱いやすいかなと思っています。思考が入った時点で価値観で無くなってしまうと思うので。

思想

価値観に並び、関数における重要な構成要素です。ここで思想とは「考え方の大きなまとまりのこと」と私は定義します。宗教はまさに思想ですし、プログラミングで言えばオブジェクト志向とか関数型プログラミングとか、そういうレイヤーの考え方のことです。世紀末覇者を目指すのに、北斗神拳か北斗琉拳か南斗聖拳か、どんな流派か、みたいな。

私が選択していた”べき論”や”正論”に沿って生きる、というのも思想の1つになります。

自分の仲の良い友人の1人は、仏教徒ではありませんが「自分は仏教OSを走らせている」と言っています。彼は「全ては苦である(=一切皆苦)」と世界を捉えているようです。仏教になったのも、メインの宗教の考え方を一通りさらった結果、仏教が自分にはフィットしたからだと言っています。

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人生における思想は、恐らく多くの人が無意識で、自分も特に宗教なようなメジャーパッケージは外部から入れておりません。日本では特にまとまりが無い人が大体だと思います。なので、直接思想を聞いても「???」となってしまうことが多いはずです。

近い切り口としては「尊敬する人は誰か」「影響を大きく受けた人物・本・作品は誰か、何か」という質問で、多少体系だったまとまりは得られると思います。

思考アプリケーション

価値観と思想をベースに都度作り出される考え、です。必要なくなったらゴミ箱に入れて(忘れて)、また必要になったら考えて生成するみたいな思考です。

今日目的地までどうやって行こうかなあ、みたいな、それくらいのレベルの考えです。あえて、その問と結論を出すまでのプロセスって覚えないですよね。最終的には言動の前に、その場に応じた言動を毎回多少はカスタマイズして出しているので、言動の前には思考アプリケーションが挟まっていると思います。

習慣

習慣は人を思考が介在せずに行動に導く仕組みです。長い繰り返しの経験から、考えなくても体が勝手に動く、というのは習慣によるものです。どんな習慣を持っているか、は体験から導かれます。

体験

最後に上記これらのベースとなっているのが「体験」です。価値観も習慣も体験を経て形作られ、思想も価値感や体験にマッチしたものが採択されることになります。

直接的アプローチの使い方

「あなたの価値観や思想は何?」と聞いても「???」なので、構造から考えると、相手の「体験」を理解することが価値観や思想を捉えることに繋がると思います。

就活で自分を形作った主な過去の経験を聞くのは、価値感や思想を明らかにするためですね。大抵の場合は体験のシェアからスタートします。話が通じる人は、価値観、思想からダイレクトに聞いてしまえますが、そこまで早く話が通じる人は滅多にいないと思います。。。最低でも解釈のすり合わせからは必要になるでしょう。

なぜその反応が返ってくるのかを解き明かす

そうして、上記で挙げた、価値観、思想、体験といった切り口を使って、相手の関数を解き明かしていきます。

自分が「”〇〇”と言ったことに”△△”と返すのは、こういった体験に基づくこういう価値観、思想があるからだ」と。複数の行動事実から解き明かすことによって、構成要素をより精度高く理解することが出来るでしょう。

そうして、インプットに対して、自分の関数仮説から予測されるアウトプットが精度高く返ってくることが分かったら、相手に対する理解が深まっている、と言えるでしょう。

フィーリングも忘れずに

ここに来てちゃぶ台を返しておくようですが、相手に対するフィーリング的理解も忘れないでくださいね。笑

愛を全て論理で語ろうとしても不毛なように、人間関係も同じ類のものですから!あくまで今回のは論理的な理解に寄ったケースです!

相手にどのように自分を理解してもらうか

理解する側の視点で書いてしまいましたが、元々の出発点は「相手に自分を理解してもらうためには」でした。でも、構造としては一緒です。

まとめると

  1. 言語化により自分の外に出せたものだけ理解される可能性がある
  2. 外に出せても表現力が低いと理解されない
  3. 相手に理解する姿勢と能力が無いと理解されない
  4. 自分の”関数”を相手が分かってくれれば、よく理解してもらえる
  5. 自分の言動を外に出してパターンを理解してもらう
  6. 過去の体験とそれに基づく価値観、思想を理解してもらう

になります。「5,6は具体的にどうやるねん!」って話ですが、ちょっと長くなりすぎたので、簡単に一個だけ紹介しておきます。

忍法「日記シェア」の術

今回書いたようなことを思って以来、日々素直に思ったことを日記をつける癖が付きまして、その日記も人にURLを送ってシェアするようになりました。

ブログよりも、もっとまとまりのない、下らない感じで書いていますが、それが気に入っています。シェアする友達には「別に読まなくても、返信しなくても大丈夫」っていって、無言でURLだけ送ってます。

関数を理解してもらうためには、思考過程を見せることが大切だと思います。

時々引っかかる部分、気になるがあれば、コメントを返してくれるのが嬉しいです。「どんな内容を送ってもいつも通り」という事実が、本来の自分を出したら理解されずに拒絶されるというのが全部自分の杞憂・被害妄想だったよね、っていうのを証明してくれていると思います。

ちなみに日記はオサレサービスのNotionを使ってます。ぜひお試しあれ。

Notion – All-in-one workspace.

理解する、理解されるは面白い

「羊たちの沈黙」に登場するレクター博士は、相手を洞察し、自分が気に入った相手(特にクラリス)を知り、トラウマを見抜くことに喜びを感じていました。

「silence of the lambs quid pro quo gif」の画像検索結果

その気持ちはよくわかります!相手を理解し、相手にも理解されるって、面白いのです。その過程で人同士は関係性を深めて行くのでしょう。

Quid pro quo. I tell you things, you tell me things.

君が答える番だ。代償の法則。君も情報を教えろ。