主人公とNPCの二足の草鞋 | 信じられる対象の必要性

コロナウイルスの影響により今週一週間は外に出ず、ほとんど家の中にいたのであるが、その中で感じていたのは「生きているとは一体どういうことなのだろう」ということだった。ああ、なんと唐突な。恥ずかしい。

何を今更そんな青い問いを、と自分でもツッコまずにはいられないのであるが、自宅守護によって生じている他者との直接的なコミュニケーションの欠如(やっぱり電話と対面は違いますね)と、日々扱われるコンテンツは違えど同じ型が繰り返された一週間は、先の様な青い問いを想起させるのに充分であった。

今日より明日が良くなるという「希望」

ヴィクトール・フランクル『夜と霧』において描き出された極限状態における人間の行動は、人間が生存のために本当に必要なエッセンスを提示する。強制収容所の絶望的な状況を生存した人と、そこで力尽きた人との大きな違いは「明日に生きる希望を持てたか」ということであった。

「今日より明日が良くなる」ということを感じることが出来る人間にとっては、今日を生き延び明日に向かうことに意味がある。しかし、その希望とは何から生じるのであるか。何を根拠に明日は今日より良くなると確信できるのであろうか。

その一つは「夢」「野心」の存在であると思う。自分自身が思い描く夢の実現に対して、毎日少しずつでも近づいていることの実感を得ることができていれば、また明日も生きていこうと思うことが出来る。

ここでは、その夢の実現可能性は全く問題ではない。重要なのは「自分が信じられる夢を描けるかどうか」ということであり、それが全くの虚構でもデタラメでも信じられれば何でもよろしい。夢が存在していること自体が生きる希望となる。

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』に登場する「いつかメッカに巡礼すること」を夢見ている、とあるムスリムにとっては、メッカへの巡礼こそが生きる希望であり、本当にメッカに巡礼することは彼にとって生きる希望を失うことに他ならない。だから、彼は今年も巡礼しないし、10年後もきっと巡礼しない。「希望」を持てることに合理性も根拠なども必要なく、それを本気で叶えようとしているかということさえも関係なく、信じることが出来るか、ということに尽きる。

人間という偶然性

生きられるかどうかは、外から導かれる意味の存在ではなく、自分自身の内面の「信念」の存在であると思う。自分自身の外部から、人間の存在意義、ひいては自分自身の存在意義を論理によって求めようとすることは、面白いほどに上手く行かない。議論の前提が「意義などそんなものは初めから存在しない」という所に立ってしまえば、そもそも論じる意味もなくなってしまう。

最近は人間という存在に、何の必然性も無いと考えるようになった。生物は宇宙の中で生じている活動の副産物として奇跡的偶然で発生した存在。人類は生物が生存という目的のために偶然生じた特徴である「知性」が自身の存在を捉えるようになり、それまでの生物が疑うことが無かった「自身が存在する意味」などを考えるようになった。ただそれだけ。その事実によって、自分たちが生まれた理由は、意味とは独立なのであって、それを思考し、辿っていくことで結論に至ることは恐らく無い。

「なんのために生きるのか」といった「生きる意味」を問うことは、自身の外部に答えを求めても何かにたどり着くことはない。生きる意味とは「ある/ない」という存在を問いかけるべき種類の問ではなく、「見出だせる/見出だせない」といった種類の問なのであると思う。見出す行為の主体なのは自己であるために、問題の所在は自分の内面であるように思われる。

『パイドン』でのソクラテス

プラトン『パイドン』において、ソクラテスが語る「魂の不死」についての問答は「むむむ?」と思わせる主張もあり、魂の不死を”論理的”に証明できているとは思えない。

ここで重要なのは、別に「魂が不死であるか否か」が論理的に証明されたか否かではなく、ソクラテス自身が「死」について自身の考えに確信を持っており、喜んでそれを受け入れていることである。これは「正しいか否か」の問題ではなく「信じられるか否か」の問題である。彼は自身の証明を信じるに値するものであると考えている。

私は、宗教や信仰の存在意義とは、この点にあると思っており、宗教が描く世界観が「正しい/間違っている」とか「ありえない」とか、そういったことはどうでもよく、信じられることができれば良いということだと思う。だから、何か信じることが出来る対象を見つけられた人は幸運だし、逆に何事も疑ってしまい、何も信じることが出来ないのは大変だよな、と思う。日常的に明示的に宗教と触れ合うことが少ない日本人は、そういった点で大変なのかもな、と思う。辛いときも何か信じられるものを自分で見つけなければいけないのだから。

まあ、とりまACTしとけって?

こんなことを考えることはまさに「アウト」な領域なのであって「百害あって一利なし」と言ってやりたいくらいなのだが、自身の思考の自己増殖的な性質は、常にそちらの方向性に進み、自分にとっても割とOut of Controlな感じなのである。(それを楽しんでいるのも一方で事実であり、こうしてブログに自分の考えていることを書くのは面白いのであるが)

そこに効くのがACT(Acceptance of Commitment Therapy)であり、Out of Controlであることを認め、自己増殖を認めつつ、それらの言うことに耳を貸さず、自分にとって価値のある行動を粛々としていきましょう、ということなのであるが、自分がこれまで価値だと思っていたことが徐々に「価値がないんじゃないか」と思えてくると、行動することが出来なくなってくるような感覚がある。「価値(観)は変わらないから価値(観)なのである」というのは、定義による言葉遊びなのであり、その結果生まれるのは「自分は価値と思える方向性を保有しない」という結論なのである。ACTするかしないか、を選択する自己の存在もあるのだよなあ。

価値の定義自身は相対論なのかもしれない(ex. 相対的に自分の中では〇〇に価値があるとしている)が、自分を行動に駆動するには価値の閾値が存在する絶対論なのである。小説のコンテストが行われれば、毎回1位から最下位まで順位はつくけれど「今年は大賞なし!」みたいな回があるのは同じ様なスキームだ。

NPCと主人公

明日に訪れる1日が、今日と同じだと思った時に恐ろしくなる。生きていながらにして生きていないような感覚。そう感じた時に、私は自分がNPC(Non Player Character)なのであると思う。誰かのゲームに組み込まれたNPCであり、ゲームをゲームとして成立させるべく自身の役割を果たす。それは決して悪いことでも恥ずべきことでもない。「人類を存続させる」という大きなミッションを持ったゲームに(たとえ小さくとも)貢献していることは尊いと思う。

別に自分がNPCとなることに絶望している訳では無い。初めから百年も経てば世界の誰もが自分の事など覚えているはずもなく、その人に感情を動かすことなどもなく、別に覚えていて欲しいというわけでもない。Pixer『リメンバー・ミー』的には、本当の死とは人々の記憶の内から忘れ去られるということなのですが。

Another Fandom, Another Fan — It won't load for me but I'm willing ...

一方で、世界観は共通なので人間は同じゲームをプレイしているようで、設定しているゴールは異なるという意味で、それぞれにとって違うゲームなのであり、人と自分のゲームを混同する必要はないとも思う。自分のゲームの”アガり方”は自分で決めることが出来る。この世は「百層のボスを倒す」というゴールが1つ決められたSword Art Onlineではない。誰もが自分のゲームにおいては、常に自身が主人公である。

自分のゲームをプレイし続けるに足る、自分が「明日は今日より良くなる」と信じられる根拠が存在することが重要な訳で、その根拠の正体自体は何でもよく、疑り深い、他者に影響を受けやすい自分にとってベストな何かがあればOKということ。

信じられる対象には、2種類あると思っている。1つは、合理的に揺るがない存在。どう考えてもそれしか考えようがないことは、信じるに耐える強度を持つ。もう1つは、経験的に揺るがない存在。合理的であるかどうかはわからないが、自分のこれまでの経験からして信じるべきであると思う存在。前者に対しては、論理は論理によって破壊されるため、自分にとって都合の悪い論理を見つけた時に目をつぶる必要があり、私はその行動があまり許容できる感じはしないから、自分は後者を大事にしないといけないなあと思う。いろんなことを経験して、信じるに足ることを見つけ出すということ。

自身の思想と生き方の同一性

友人との議論において「自身の思想と生き方を同一化させる必要はあるか」という話があった。この議論は、偶々その後に読んだNassim Taleb『Skin in the Game』でいう「身銭を切れ」という言葉と重なる。

「死後の世界はユートピアなんです!!」と主張しながら、死を目前として命乞いをするようなことは「身銭を切っていない」のであり(=ならユートピアなんて言うな、ということ)、ソクラテスのように自分の思想に忠実に、上機嫌に毒を受け取り、平然と飲み干すような人間こそが「身銭を切っている」人間である。

思想・生き方レベルで身銭を切るか否かは、まあその人次第だなと思う一方で、他者に対する影響やもっと人類としての足の長い話としては、大きく異なってくる。『後世への最大遺物』的に、後世の人々に最も残ることとは「その人自身の生き方」であり、その評価は「身銭を切っているか/否か」によって、大きく異なってくるだろう。

例えば、ソクラテスが毒を飲む直前に「ごめんクリトーン、やっぱり今からでも逃げられるかな・・・」なんて言っていれば、ここまでソクラテスの名が知られることも無かっただろう。(まあ、事実は分からないことだし、死の目前に命乞いをすることを誰にも責められるはずも無いと思うのであるが)「生き方は物語としてどうあるべきか」という型は存在するように思う。

そういう意味では、人間の人生さえもアニメや映画と同じ、将来的な人類の娯楽のために消費されるコンテンツであるようにも思えてくる。「ちゃんと物語のセオリーどおりに生きないと誰も覚えてくれないし、影響も受けてくれないよ」というような。まあ、そんなことまで気にして生きる人間なんて滅多にいないのだろうが。ただ自分自身の納得感と物語としての美しさはリンクしているようにも思えている。

強く生きよう

コロナウイルスによる自宅警備の話から色々と思考が飛び「生きているとは」という問いから色々と飛んでいった。そもそも問に答えられてもいない一方で、今回話したように最後は「CorrectよりもBelievable」なのであって、色々経験しては考えてをこれからも繰り返していくのだろう。

世の中的には先行き見えないネガティブな空気が漂っているが、こういった非常事態においても、人類は過去に同様の経験をしており、本質はあまり変わらないのだなあというのが最近の思うことである。同じエッセンスが、時代によってUIがカスタマイズされた形で表出しているようだ。こんなときだからこそ、強く希望を持って生きていきたい。