沈黙は金か?

SNSやメディアでは、世のニュースを議論や批判の種に色んなコメントで賑わう。建設的で共感を集めるコメントには、多くの「いいね」やら「シェア」が集まる。一方で、とにかくディスる、みたいな、単にその種をきっかけにして、自身の感情を吐き出しているだけのようなコメントも集まる。

そんな中で「世の出来事には沈黙するしか無いのではないか」と思っているのが最近である。

この辺り、色んな考え方があるのではないか。

  • 沈黙は存在しないも同然だから「批判」の方がまだマシ
  • 知らない所で人を傷つけるくらいならば黙っているほうが良い
  • 当事者以外の意見など不毛で、意見よりDoer(実行者)になれ

・・・等

SNSとの付き合い方、社会との関わり方という点で色んな議論があり、また自分の中での折り合いもある。

それらを踏まえて、自分が世の出来事に対して、どんなスタンスを取っていくのかというのは、人生の中では社会・他者との関わり合いこそがポイントであると思い至った身としては、考えなければいけない点であるように思われる。

ということで以下、なんで沈黙したくなってしまうのか、沈黙してて良いのか、について考えたことに関する雑感である。

どこまでいっても共通善はあり得ない

数々の明言を残しているドラえもんの言葉の1つにこんなものがある。

どっちも自分が正しいと思ってるよ。戦争なんてそんなもんだよ。

この言葉は、世に溢れる議論や批判、対立について、非常に大切なことを言っているように思われる。

基本的に対立構造は「正しさの対立」だと私も思う。どこまで言っても「正義」のぶつかり合い。どちらも自分が悪などと思うことはなく「自分が正しい」と思って戦っている。

そうなった時に、第三者が対立する二者の間に入って「どちらが正しいか」という判断に入ることがある。代表例は裁判だ。

しかし「どちらが正義か?」という論点設定は私の中では誤っている。

どちらも、それぞれの世界から見れば「自分が正義」なのであるから、それを第三者が”客観的”に正義と決断することも、結局はその第三者の世界観における正義にしかならない。(つまり、裁判も掲げる正しさを何かに依拠している)

何かに基づかなければ「正義」を建てることは出来ず、その基づいたものについて人類全体の了解・共感を得ることは出来ない。何かに基づけば、その反対が存在してしまう。

『道徳の系譜』みたいに「何を善・正義の足場にしますか?」というのが明示されていなければ、何かを言っていることにはならず、もし何かを言えばそれは反論が必ず生じるということになる。

(ex.『道徳の系譜』では、人間の本性(支配、抑圧、優越等)によって生じる構造とそこでの役割をベースにそれぞれの役割の抱く感情や役割に紐づく事象を「良い・悪い」やら「善・悪」に使った。具体的には、奴隷 ⇔ 貴族に紐づく概念を「良い悪い」の土台にした、という理解・・・)

また、人類全体の共通善を打ち立てることが出来ないことは「哲学が二度溺死した」という歴史から導かれる。それを無視して「正義」を打ち立てることは、正義にそぐわないのを抹殺するということでもある。どこまで言っても、真の共通善はありえず、打ち立てられるのは共通善を語った独善でしかあり得ない。

次に設定する論点

対立構造の解消のために、対立する双方が納得できる絶対的な軸によって、善悪を断じることが出来ない以上、もう少し具体的なレベルでの検討が必要になる。

  1. 対立の原因となっている問題を具体的にクリティカルに抑えられるか
  2. 双方が受容できるストーリーを構築できるか

について考えなくてはならない。

人間が抱える矛盾性を前提に、具体的に対立構造の原因を解消する。もしくは、対立を収めるのに十分な理由や大義名分を持ってきてあげる。

もし対立を抑えようと思ったらば「誰が正しい・正しくない」みたいな一生答えのでない話をするのではなく、上記のような具体的なことを考える。

2については、どこまで言っても「人は自分が受け入れられる理由を探しているに過ぎない」という点に基づく。

そんなことを思ったきっかけに、先週末に朝のワイドショーをたまたま見た際に「ダム建設に反対する地元住民」「ダムの建設を推し進める自治体」の対立が取り上げられていた。

それぞれに言い分があるようだったが、対立は激化して警察が出動するような事態に。老若男女問わず地元住民は激しく抵抗し、怪我人も出ていた。

そんな様子を見ながら、ふと以下のような思考実験が頭をよぎった。

「地元住民の抵抗の結果、このダムを建設しないことになり、発生するはずだったダムを建設する仕事が無くなったとする。建設事業者はダム案件を失い倒産。建設会社の従業員が全員失業し、路頭に迷うことになった。その従業員たちには養う必要のある家族がいる者も多かった。こうなることは建設事業者側では予見されていた。さて、このことを地元住民が知っている場合/知らない場合で、ダム建設に対する反応はどう変わっただろうか?」

まあ、細かい設定は何でも良い。エッセンスは「自分が信じていることによって他者が傷つく時、その認識の有る/無しで人間の行動は変わるか」ということだ。

で、答えは大体の場合で「変わる」だろう。

知っていようが知っていなかろうが、自分が行動すればその結果は変わらないのに、自分が行動した結果を知っているか知っていないか、によって実際の行動は大きく変わる。

こう考えた時に人はどのような行動を取ればよいのだろうか。相手の立場が理解できてしまうと「自分の中の正しさ」に迷いが生じる。自分は「善」などではなく、むしろ「悪」ですらあるのではないかと。

一つの適応方法として「意図的に見ない」を選択するだろう。知ってしまい、自分が揺らぐことを恐れるから「知りたくない」「見たくない」「聞きたくない」と感じる。認識をコントロールしないと自分の正しさを保てない。

現実にどうなるか、といったものは実は人の中ではポイントではなく、人が真に気にしているのは「自分が受容できる理由を持てるかどうか」なのであると思う。正しさとは、自分が受容できる理由の代表格である。正しくないと分かってしまうと、そんな自分、自分の行動を受け入れることができなくなる。

「どちらが正しい」という解決が出来ない以上、受け入れるに足る理由を作るしかないのだなと思う。「それならしょうがないね」って思わせるようなストーリーを紡ぐのだ。

ビジョンの役割とトートロジー

でも、思えば「みんなが共感できるビジョン」ってあるよね、ということを思い出す。企業や組織の掲げるビジョンに反対する人は中々いない。これは共通善があり得ない、という話とどのように折り合うのか?

誤解を恐れずに言えば「ビジョンは何も言っていない」ということだと思う。

確かに何かは言っているのであるが、現実レベルにおいて全く何も言っておらず、逆に何も言っていないからこそ、多くの人に共感を得ることが出来るとも言える。もし現実レベルのことを言っていれば、必ず反対が生じる。

誰にでも共感されることとは、本来現実世界において、何も意味を持たないことなのではないか。現実的であるとは、賛否両論が存在すること、とも言えるのかもしれない。

もし、人類共通の了解や共感が起き得るのは

  1.  何も言っていない場合
    (⇒ 善は良いことです、みたいなトートロジーの類)
  2.  了解や共感の内容は、実は個人によって異なっている場合
    (⇒ みんなが各々勝手に都合の良いように解釈しているということ)

などが考えられ、どちらにしても皆が何か一つ同じものを目指している、ということにはならない。在り得るのは「同じものを目指している、とそれぞれが思っている」状態までだと思われる。

ビジョンは具体論に落とせば落とすほど賛否両論が発生する。それは当然のことである。ビジョンそのものの役割が「大人数を一つの方向にドライブするもの」と考えると、具体論になればなるほど、その役割を果たせない。

人間は矛盾を前提にし、受容こそが問題であるとすると、ビジョンはトートロジーでも、勝手に解釈でも、それに沿って頑張ろうと思えればOKであり、逆に賛否両論が発生していることはビジョンとしては欠陥でもある。

エゴを突き通せるかどうか?

と、ここまでのことを考えると、

  • 共通善は不可能
  • 自分の正しさも「認識のコントロール」によって保つしか無いほどに脆弱
  • トートロジーと勘違いによるドライブは可能

みたいな感じ。

どこまで言っても「正しさ」「善」「ビジョン」“エゴイスティック(利己的)”にしかならない。ここでいうエゴイスティックとは、必ずしもネガティブな意味ではなく「自分がそう望んでいる」という意味でのエゴある。そこに良いとか悪いという何かしらの価値判断をするつもりはない。

但し、そのエゴを「人類皆がそれを望んでいる」といった「大義」というフィルムに包もうとすることは、あまり良いことには思えない。( ⇒ “私”がそう望んでいることを、”みんな”がそう望んでいると主語の範囲を勝手に拡張する)

しかし、人が受容を求めているという意味では、フィルムにくるんで「良い夢を見させてあげないといけない」という考えは理解が出来る。同じことをするにしても、エゴ丸出しでは誰も良い夢を見ることが出来ない。

沈黙は金か?

初めの話に戻ってくると、私はそういうふうに物事が見えてくると、何も言えなくなってしまう。黙るしかないと思ってしまう。

  • 自分の正しさを語ることしか出来ない
  • 自分の正しさ(善)とは、誰かの誤り(悪)のことである
  • 語っても、決して物事が前に進む訳でもない(むしろ後退さえさせ得る)
  • 語っても、相手にとって心地よいストーリーになる訳ではない
  • エネルギー消費量的に、黙るより語る方が疲れる

などなど。

何かを言っても、相手のためになるとは限らないし、どこまで言っても自分が言いたいことをいうだけになってしまう。どこまで言っても「自己満足」という形は変わり得ない。だから、相手から意見や発言を求められているときにしか、行動・発言がしにくい。この背景には、他者からの承認・受容などを一定気にして生きてきた部分があるように思う。

(※ちなみに、これは社会の在り方やら、個人の生き方などについてであり、仕事上の議論などは除いている。なぜならば、具体的な仕事においては、ある決められた目的・優先順位・制約の元、妥当な解が論理的に導けると考えているからである。なので別スタンスである)

感情的には「自己満足で結構!我を通せ!それが社会に大きなエネルギーを生み出すのだ!」という感じなのであるが「自己満足」「エゴ」「押し付け」といった言葉自体に染み付いているネガティブなイメージに抵抗感があるので、自分の中での受容が上手くいかない。

それでも守りたい世界があるんだぁぁぁ!!

とでも、言ってしまえれば良いのだけど。

絶対的に信じられるものがあり得ない状況で、それは難しい。

こうなると、強烈な思い込みを持つしか無い。しかし、このようなところまで思考している所を見ると、強い思い込みを持つのは難しいのではないか。そもそも懐疑的な人じゃないと、こんなこと考えるはずがないから。

そうなると頼れるのは思考ではなく、感情や本能的な部分だろうか。そこを起点にしないと最後はブレる訳である。思考は定義された変数の値が変われば、勝手に変わってしまうので。

かと言って、何事にも黙っていて良いのか、という思いも勿論ある訳で。声を上げるべきと思うこと、思うタイミングはあり。そして黙っていても何かが変わるということもなく。跋扈する悪行を許し続けるのか!というのはごもっともであり。(これまでの通り、その善・悪は脆いものなのであるが。善悪を抜きにして「直感として許せぬ」と思うことはある。)

この辺りの葛藤・バランスが最も難しい。。。

「ちっくしょおおおお!」って黙らずにやりたいようにやってるときもあるし、こんなブログを書いている時点で、全くもって黙っていないわけだから、まあそういう矛盾を抱えながらこれからもやっていくんでしょう。