人は相対性の中で生きている | 宇宙に浮かぶことは出来ないけれど

両手で弾ける曲を片手だけで弾けるか?

最近ピアノを始めて、その話題になると「右手と左手を別々に動かすって難しいよね~!」みたいな話が必ず出る。私も始める前にそう思っていた。なんで右手と左手が別の生き物のように動くのだろう。すっげえピアニスト!と思っていた。

ところが実際にピアノを始めて2ヶ月ほど経ち、左手で副旋律、右手で主旋律と右左で別々に動かすようになった時にあることに気がつく。

あれ、右手だけで弾けない?

なんと、両手で弾ける曲が分解した右手、左手だけで弾けないのである。曲を右手・左手とに分解し、それを足し合わせて1つの曲になっている。だから「片手の方が両手より簡単だろう」というのが普通の頭なのであるが、どうやら練習をしている自分の感覚はそうではないらしい。

ちなみに辻井伸行氏の幼少の頃の練習法は「右手・左手で別々に練習 → 両手に合わせる」で、確かに形式としては皆こういう風に練習するんだけど「感覚としては単純な足し算になっていない」というのが面白い。

シンプルにまだまだ練習量が足りておらず、片手ずつ弾けるほどに習熟していないということでもあるのだが、逆に両手で弾くものを両手で弾けていることに何も問題はない。

何度か右手・左手に分解して弾くことにトライして、私はどのように「次にどの指を動かすのか」を自分の感覚が把握しているのかを理解した。

相対性だ!

右手と左手を旋律をそれぞれに覚え、身体に染み込ませ、両手で引く時に合体させているのではない。

右手がこうなっている時には、左手がこうなっている

といった、右手と左手の間にある“関係性”によって曲を理解し、演奏しているのだ。だから、自分にとって「右手と左手は別々に動いている」のではなく「右手と左手は繋がっている」のである。

鍵盤がない机の上で弾きたい曲の運指ができるか?

次に気づいたことがある。机の上で両手を置いて、いつも弾いている曲の通りに指を動かしてみる。しかし、なぜか出来ないのである。ピアノだったら間違えないような弾き慣れた曲であっても、全然指が動かない。ここでも同じことに気がつく。

相対性だ!!

ピアノを弾いているときにはいくつかのフィードバックが存在している。そのフィードバックがあるからこそ、ピアノを弾くことが出来る。

1つは「音」。特定の指を動かした時に鳴る音が、机の上では発生しない。それにより「自分が動かした指が正しいのか、正しくないのかが自分の中で判断できない」のである。逆にいえば、自分は「意図した音が鳴っている」ということに、「自分が正しく弾けているかどうか」を判断しており、指そのものにはあまり意識を置いていないということが分かる。だから、なんとなくの指の形しか覚えていないのである。

もう1つは「鍵盤の打感」。指を動かした時に跳ね返ってくる感触がピアノを弾く時に自分の中でリズムを刻む動作の中に組み込まれている。その打感も含めて自分は「弾く」という動作を記憶しているようなのである。

つまり「曲が弾かれている」という状態は、

✕:特定の順番で指を動かした時に、結果として意図した音が繋がって奏でられている

ではなく、

○:左右の手・鍵盤の打感・音などのフィードバックを含めた総体として実現している

なのであると思われる。

そして、その総体の中で、個々の要素の相対性・関係性からそれぞれの位置を捉えている。決して、総体の中で絶対的に要素が浮かんでいるのではない。AがあるからBがあり、BがあるからAがある、という「持ちつ持たれつ」の上に成り立っているのだ。

(そんなニワトリタマゴの中で、じゃあ何からスタートしたのですか?、と考え始めると哲学スタート!な感じですね)

個ではなく、差分・違い・関係性が本質?

情報とは「差異」のことである

と何処かの誰かさんが言っていた。調べてみた所、元々の発言者は学者のグレゴリー・ベイトソンらしい。正確には「差異を生み出す差異」と定義しているようだ。トートロジーチックというか再帰的頭字語チックというか。じゃあ始まりの差異はなんだろうね~!というツッコミはまあ置いておいて。

さて、私はこの言葉を思い出す度に「本質抉り出すのうますぎかよ!」とツッコミを入れたくなる。

例えば、今自分が見ている風景を全て同じ色に塗りつぶしたら?

立体的には同じだとしても、我々には区別がつかず、単なる一つの色が広がる風景にしか見えなくなる。逆に言えば、色の違いがあるからこそ”ある風景”が存在している(ということを認識できる)。差異は情報である、というのはそういうことだ。

私たちは、対象について線を引き、その内側をその存在として認識しようとしているように思う。線を引き、対象とThe Othersの関係性だ。

ルビンの壺」 | 不屈の心はこの胸に!りゅうさんの「広島スポーツ応援ブログ」

ルビンの壺を考えよう。まずは線を認識し、その内側・外側の図形を捉えようとする。ルビンの壺の使用例としては「人によって色んな解釈がありますよね」的な感じが多いのだけど、自分としては「線があるからこそモノがある」ということだなと。

ここにおける線が境界線として「対象(2人の顔 or 壺)」と「それ以外」の関係性を作り出している。となっている。この線が引かれることによって、そしてその引き方によって、それが「関係性」となり、概念が認識される。逆に、線がなければ(関係性が決まらなければ)壺の存在も、顔の存在もありえない。だから、本来注視すべきは、普段概念と概念の間で空白として扱われている「相対性」・「関係性」の方なのではないか

相対性があるから私たちは自分が分かる

人の存在についても同様で。例えば

誰もいない森で落ちる枝葉は存在しているか?

と問うてみる。

おそらく物理的には存在しているといって良い。しかし、誰がそれを知るのだろうか。誰も認識しないとしても、それは存在しているのか?対象を認識する存在があって初めて”存在を認められる”のではないか。

なんて認識の面倒なお話が始まっちゃいそうだが、ここで言いたいのは、物と物の関係性が存在しているから、その存在を認めることが出来るということ。存在そのものよりも、関係性の方が重要なのではないか。

誰かが声をかけるから、外に出ると風に当たるから、ご飯を食べると美味しいから。そんな相対性・関係性の中で、私たち自身が「私は存在している」ということに気がつく。

しばしば見える対象を、過去の記憶を、一つのまとまった独立したカタチとして切り取ってしまうけれど、本当はその境界線やそれぞれの間にある関係性で成立しているのだ、という風に世界が見えるようになると面白い。

人は誰しも、そんな「関係性の世界」の中で独立して宙に浮くことが出来る「始まりの存在」ではない。誰しもその持ちつ持たれつに組み込まれた存在である。しかしそれはつまり、自分も総体の中で、誰か・何かとの関係性を作るための役割を担う存在の1つなのであると考えると、なんだか意味を感じられるのではないだろうか。

他者に意味を求めろというニュアンスでいうつもりはない。でも、自分がいるから、誰かが、何かが存在していられる。そう思うと、どこか少しだけ前向きになれないだろうか。