言葉を超える | 音楽とPolyglot

今年6月くらいから趣味でピアノを始めました。小学生の時に家の近くにピアノ教室あったのですが、なんか恥ずかしくて親に「行きたい!」と言えないまま、ズルズルと24歳になってました。

ところがそんなある日、お気に入りのピアノYoutuberが出来まして。「みなまで言うな。のび太くん」とドラえもんに小学生の時に口酸っぱく言われましたので、とりあえず観てくれということでEmbedしときますね。

もう軽く100回以上聴いてる

いやかっこよすぎかよ。こんなん駅で弾かれてたらそりゃ足止まりますわ。個人的には「雨だれ」→ 「Op.64 – 2」に繋がっていく所が大好きで仕方ないっす。ショパンのボサノバアレンジとかおしゃれ過ぎるやろ。。。

ちなみにピアノYoutuberには有名な方がいくらかいらっしゃるのですが、こちらのござ氏の強みは、①適度で心地よい装飾感、②緻密な音楽理論・ロジックに基づいたアレンジ、③アレンジジャンルの幅広さ(ジャズ、ボサノバ、演歌なんでもござれ)です。一番聞きやすいです。

井の中の蛙、バーを知る

丸ノ内サディスティック好きにはタマラナイ

一万時間の法則

マルコム・グラッドウェルは有名な「一万時間の法則」を提唱し、一流として成功するためには文字通り一万時間の努力が必要と言います。

なのですが、別にピアノで食っていきたいとか、そんな野望がある訳では無く、シンプルに「自分が言葉にできない気持ちや感情を、言葉以外の手段で人に伝えられたら良いな」と思ったのです。人は言葉に頼り過ぎです。言語に出来ないものは存在しないとでも言うかの如く言語化を重視してると思います。傲るなァ!!!!

でも、時には言葉では伝えられないこと、言葉よりも上手く伝えられる手段が存在します。夜の街に散歩に出た時の高揚感。ひっそりと照らされた夜の川。様々な色を持った霞んで見える建物の光。そんなふとした美しさを表現することが出来ないことがもどかしい。。。そんなことを去年辺りから感じ始めていて。

そんなのも重なり「じゃあピアノでええやん」ってなりました。

1日3時間×365日×10年=10,950時間で、だいたい10年毎日頑張れば、1流になるために必要な努力時間の基準には達するようです。それくらいのレベルになっていれば、言葉と同等までいかなくても、私にとっての新しい「口」や「筆」になってくれるのではないかなあ。まあ地道にやっていきますよ!

哲学的プロジェクトとしての「音楽」

で、普段のこのブログらしくないこと書いていますが。ご安心ください、ここからちゃんとらしくなってきますよ。とりま雰囲気出すために雑に哲学者ぶっこんどきましょう。

音楽は人生の神秘への答えである。音楽は芸術の中でもっとも深遠なものであり、人生へのもっとも奥深い洞察である。

-ショーペンハウアー

ショーペンハウアーは主著作『意志と表象としての世界』にて、そこそこに芸術の話をしていて、特に音楽については芸術の中でも重要視をしてます。天才とはざっくりいえば「イデアを一般人よりも多く直観できる人間」といい、音楽は言語という人間における思考・理解の枷になっているものを超えて、そういったイデアにアクセスが出来る媒体、として見られます。

なるほど、たしかに、音楽を聞いた時に浮かび上がる感情・感動は言語を超越している。先に涙や鳥肌という生物としての直観的な反応があって、その後に「この曲はこういった部分が良い。だから泣ける・感動する」と言語での理解が追いつきます。そういった経験を思い出すと、彼の言うことは納得感があるなあ、と感じられます。自分もこういった体験を裏付けに、音楽が使えるようになりたいなあ、なんて。

高校時代に2週間だけ英語の塾に通ってたのですが、そこで先生が言っていた言葉が印象的で。

世界どこを見ても歌を歌わない民族はいないんです!

これは、ゼロとは言わないまでもおよそ真実のようで。音楽が人間の本質に大きく関わっているということは間違いないのであろうなと思われます。国籍も人種も関係なく「音楽は人・世界をつなぐ」ことが実際に可能な訳で。一方1つの言葉では人・世界をつなぐこともできなくて。というか、同じ言葉喋ってるのに、ぜーんぜん相手のことさえ理解できてないじゃない!

んな訳で、言語以上に人間の根源において役割を果たすことが可能なのだろうなと思ってます。別に哲学的プロジェクトなんて全く大それたものでもないのですが。60代からピアノを始めてが毎日7時間 × 7年間練習して「ラ・カンパネラ」を素敵に仕上げたおじさんもいるんだとか。いやこれ2万時間に迫るやないかw まあ頑張ります!

哲学的プロジェクトとしての「言語」

で、音楽は一旦置いておいてですね。先日お風呂入りながら思いついてしまったんですよ。最近の自分の興味テーマは「暗黙知」や、音楽の話でも出た「言語外による思考」なのですが。

映画『リミットレス』みたいなイケイケなブラッドリー・クーパーになるとしたら、これらのテーマの領域に踏み込むしか無いんだろうなと思っています。

先述のように、天才は時間と空間、因果性といった現実世界で事象が顕然する際に避けられない制約を受ける前の、より根源的存在である「イデア」を一般人よりも多く認識できる人間のことと考えられますが、イデアとかは言語を超えた存在であって。そうなるとそれらを扱おうとするには、言語を超えた手段によらなければ実現が出来ないということになります。

人間は認識・思考の制約の1つとして言語を置かれており。「語り得ぬものには、沈黙しなければならない」という言葉はそれを象徴しています。たしかに語ることが出来ないならば論じる対象になり得ないのですが「論じることが出来ない」 ≠ 「扱えない」ということにはなりません。

今年の年始に、言語化外の思考をコントロールすることについて考えて、そのときは「偶発的な思考(≒ ひらめき)」を誘発するための行動を行う、というアプローチを書いてました。

結論消費主義時代の到来と天才の解放【後編】

で、なんで言語外の思考をコントロールできると良いか、というと思考のアウトバーン走れるからです。両手足の重りを外して「ズゥン…..!」みたいな、そんな孫悟空になれます。言い換えると、あなたも私もブラッドリー・クーパーになれます。エ、チガウ?

私の中では、偶発的な思考は偶然に発生しているのではなく、単純に思考している領域が言語外にあるから人間が認識できていないに過ぎず、実際は自分の中で常に行われているものであると考えてます。

しかし、今回思いついたものは、またそれとはアプローチが異なります。

複数の言語に習熟することで意味内容レベルでの思考が可能になるのではないか

そう思ったのです。

日本語や英語、フランス語、アラビア語など、扱う具体的な言語は異なるものの、言語という機能はどんな人類にとっても保有しているものになります。

そしてその事実は、人間は共通でその一つ高次の意味内容レイヤーを扱う機能を持っており、後天的に習得した言語そのもので考えているのではなく、意味内容レイヤーでの情報処理を行っているということを示しているのでは、と思いました。

例えば、「原因」と「結果」という因果性は、言語に関わらず認識が出来る関係性であるわけで。自分の扱える言語が日本語であれば「とても疲れました。なぜなら、今週たくさん働いたからです」と表現を行い、もし英語であれば “I got tired because I worked hard this week.” みたいに表現するというだけで。でも考えている意味内容は一緒でしょう?

では、具体的にどのようにその言外の意味内容レイヤーでの思考をコントロールしていくか?

複数の言語をマスターすれば良いんじゃね!?

いや本気で言ってるよ、マジで。

シニフィアンとシニフィエ | wikipedia

ざっくりいうと、私はシニフィエにあたるものを”意味内容”という言い方をしているけれども、2つの言語間で共通するシニフィエと、10つの言語間で共通するシニフィエでは、10つの方がより解像度が異なると思うのです。より「イデア」的みたいな。

言葉を発するときのプロセスって、おそらく

  1. 言いたいことの意味内容を考える
  2. 意味内容の論理を並べる
  3. 言語として外に出す

だと私は認識しているのですが、①②って別に言語に依存しないというか、言語で行われてないと思うのです。

友達と普通に話している中で、毎回頭の中でこういう風に話そうなんてわざわざ考えなくても自然と言葉は紡ぎ出されるわけで。では「その紡ぎ出された言葉はいつどのタイミングで確定したの?」という疑問が湧きます。

これが①②で。③は言語なので我々の認識下だけど、①②は言外なので認識不能。でも普段話す例からもわかるように存在していることは示されている。それをコントロールのためには①②が何であるか、感覚としての理解を深めていく必要があると考えています。

自己の内部の理解を深めていく方法と主に2つしか無いと思っていて、

  1. 同じ経験を何回も繰り返し感覚そのものをコントロールする(ex. スポーツ)
  2. 違う切り口の経験を重ねて共通項を引っ張り出す

で、今回のは完全に2のアプローチで。そのために複数の言語を用いることによって、言語の奥にあるものの存在理解の精度を高めるのです。

端的に言えば、英語で「Sun is shining in the sky, not a cloud in sight」と言いたいときと、日本語で「太陽が輝いて雲一つない」という時に発生している思考についてのサンプルを増やすことで、①②が何であるかを感覚としてより深く理解したいなと思います。

帰国子女とか海外生活が長かった方には理解いただけるかもしれないと思っているのですが、しゃべる時に日本語と英語が混ざってしまう俗にいう「ルー大柴現象」って、自分の発したい意味とそれに即した言語が日本語の方がマッチしているケースもあるし、英語の方がマッチしている結果なのではと。

ちなみに多言語話者のことを”Polyglot”と言います。言語を幼少期に習得したか、成長してから習得したで、思考に対して与える影響は異なっているんだとか。

言語学で普通に既に多分に研究されているとも思うので勉強してみます。一方で、私にとって重要なのは私としての経験的・体験としての理解なので、研究され尽くしていようともトライしたいなあと思います。