“アウト”と幸福 | 現実からはみ出そうとしているあなたへ

※今回の投稿は、友人とかつてカフェで議論したことを、改めて自分なりの解釈で纏めたものです。

私にとっては激動、変化の連続であった2019年も残すところ3日となりました。年末の時間を使い、この1年間の考えの変化などを文章にしていきたいと思います。(たくさん書くために秋葉原でしっくり来る外付けキーボードも買ったのですよ)

まずは、幸福感に関する考え方の変化について纏めます。一般論として論じるほどのデータなど無く、根拠に乏しい感覚的な話ですので、あくまで私個人の視点とすることしか出来ません。

ただ、これまで色々なバックグラウンドの人と話してきた中で形成された考えですので、この記事が何かの足しになる方がきっといらっしゃると信じております・・・!

「幸せになること」の病

「american house same」の画像検索結果

幸福のテンプレート

もちろん幸せになりたい、でもどうやって幸せになれるか私には分からない。(Instagramを見て)ああ周りは今日もすごく幸せそう。さあ私はどうする?

時代が流れるにつれ、幸福の姿も変化しています。ここ数十年で言えば、モノの所有など物質に基づく幸福感(ex. 大きな家に住む、かっこいい車を買う)から、連帯や所属、体験など精神性による幸福感にウェートが置かれるようになったと言われています。

この変化は、個人の幸福観が変化しているというよりは、新たな価値観を持った若い人が社会の中心になり始めた、ということだと思います。

幸福に対する価値観が変容し、私は幸せを求めることがある種「病」のようになっているような感覚に陥っています。強迫観念的に「幸福にならねば」と。

これまでの物質による幸福感はある種、テンプレートが存在し、たとえ思考停止しても、テンプレート通りに生きれば、一定幸福になれていたのではないでしょうか。

例えば、スタインベック『二十日鼠と人間』では、出稼ぎ労働者たちはいつか自分の農場を持つことを皆が夢に描いています。「自分の農場を持つ=幸せ」というテンプレート。映画『アメリカン・ビューティ』でも、幸福なアメリカ人家庭のテンプレートが用いられています。(映画はその表面的な幸福の裏にある闇を写し出すものなのですが)

一方で今の若者にとっては、テンプレートとなる幸福像が見えにくいと感じます。モノ的に幸福になろうとすることは虚しく写り、それを追うこと自体ネガティブに見えています。しかし連帯や所属などによる幸福感のテンプレートもまだ黎明期であり、かつテンプレートとしては可変領域・変数が多くて、盲目的に利用できるようなテンプレートとは呼べないと感じます。

幸福になるために病む

個人としては、頑張れば比較的何でも出来るようになったことで、逆に幸福像が多様化し、何を選択するかは自分自身に依存する割合が高まったように思います。そこで増えた莫大な選択肢の中で自問自答します。「私は何を選べば幸せになれるのか」と。幸せになることを急かされる一方で、手段が分からない状態は、常に自分を追い詰める病のようなものです。

「選択肢を持ちすぎることで、かえって不幸になる」は、心理学者のバリー・シュワルツが「選択のパラドックス」として述べています。

自分の頑張り次第で、何にでもなれるからこそ、何をしていいか分からない。そして豊富な選択肢の中で何かを選択すればその他を失う。そうなると、他の全てを捨てても良いと思えるほどの熱意や欲求、を神格化しそれに依存しようとしてしまう、そんな感覚があります。

誰もが自分らしい幸せを追求できる幸せは、幸せになる方法が分からない人をより不幸にしているかもしれません。それら全てを自己責任と断じることも可能です。もちろん幸せになることの責任は自分にあります。

ただその姿勢には共感できません。幸福に対する考え方自体が個々人の中で深まることで、自己の責任であっても、もう少し良い形で幸福になることに向き合っていけるのではないか、と思っています。

“アウト”の罠

誰のための内容か

さて、今回本題として書きたかったのはここから。

一番関係あると思われる人は、

  • 反芻型の思考をする方
  • 日々自動内省するタイプの方
  • 虚無感に囚われている方
  • 周囲の人がなぜ楽しそうなのか理解できない方

かと思ってます。

こうやって書くと「それってどんな人やねんwwww」と言われそうですが、自分的には上記特徴に当てはまる人がイメージできているのですが、うまく言葉にするのは難しいですね。。。うまくキレイに横串を刺した、コリン・ウィルソン『アウトサイダー』は素晴らしいです。

自分が上記に当てはまるかどうかは、きっとご自身に心当たりがあるかと。そんな人に向けた内容と思って書きます。

幸福の段階

幸福には、その幸福が何によって基づくか、によってレイヤーがあります。ぶっちゃけマズローの「五段階欲求説」みたいなものですが、位置づけの違いがあります。

マズローと違うのは、「下が満たされると上に行きます」という欲求の次元を表したいのではなく、「その人が何から幸福感を得たいか」という「幸福になる手段に対する志向の違い」を表している点です。完全固定ではなく、変化することはありますが、そこまで大きくは変わらないし、簡単には変わらないと捉えています。

なので幸福の違いではなく、幸福を得るための手段の違い、というイメージ。「何で幸せになれるか」の「何で」の部分の類型化を試みています。

社会・組織・個人のレイヤー

一番右の「社会」「組織」「個人」は、その幸福を得るために関わる人間の範囲です。「個人」であれば、他者と直接的に関わりが無くても、その幸福を得ることが可能で、逆に「社会」レイヤーになれば、自分自身以外の多くの人間との関係が必要になります。”Out”に関しては後述します。

各レイヤーの類型

モノ(個人)

所有欲など物質・モノ・製品等によって得る幸福。

Ex. 車を買うことが幸せ、家を買うことが幸せ、Boseのヘッドフォンで幸せ!

娯楽(個人)

趣味など好きな体験によって得る幸福。

Ex. 音楽を聞いている時間が幸せ、映画を観るのが好き!

関係性(組織)

周囲の人間との関わり合いによって得る幸福。

Ex. 家族と一緒に居る幸せ、親友と時間を共有する幸せ

やりがい(組織)

周囲の人間と協働して何かを達成することによって得る幸福。

Ex. 仕事で一緒に会社を成長させる幸せ

Vission / Mission(社会)

社会にインパクトを残すことによって得る幸福。

Ex. 社会問題を解決して幸せ

どんな人にも趣味はあるし、家族を求める思いもあります。なので、1つに決まる訳ではありません。あくまで、グラデーション、と考えています。

趣味に興じることが何よりも幸福で、趣味の質と量の最大化を目的に人生を設計する人もいるし、社会的な意義に対して人生を賭して挑戦を続ける人もいます。人それぞれが自分が一番幸福になれる方法を模索しています。

「Out」という領域

Outとは

Out(アウト)は、現実の世界から概念の世界に飲み込まれた領域です。生きることの意味、人としての正しさ、生きるべきか死ぬべきか、エゴを通すことが正しいのか、自分は幸せになるべきか否か、といった哲学的な領域です。

幸福になることが本当に幸福なのか、といったメタ的な視点も含めて、人間としての根源的な存在意義、人間としてあるべき姿を探求し続けているのがOutです。時代を超えて存在し続けている場所だと思います。

Outの恐ろしさ

Outは、逆三角形の形状の通り収束するのではなく発散しています。つまり、領域は無限大に広がっており、Outに踏み込めば無限大を彷徨うことになります。自分にとっての幸福の手段・幸福の意味を、Outのレイヤーで思考していくことで、解にたどり着くことは不可能です。底なし沼とも言えます。

これは自分の思想ですが、そもそも人生に与えられた意味は無いと思っています。偶然に宇宙に生物が生まれ、その生物が長い歴史で進化し人間になっただけ。人生の意味を探求しても、論理的に詰めていけば「そんなものは無い」があるだけ。

If I had an hour to solve a problem I’d spend 55 minutes thinking about the problem and 5 minutes thinking about solutions.

Albert Einstein

答えなど存在しない問題に対して「解く」というアプローチをすることは無駄です。可能なアプローチは自分自身で「意味付け」をすることだけ。名前が無いものに名前を自分で与えるようなこと。

そして、矛盾や不純の不完全性の中にある人間社会に対して、完全性や正しさを求め続けても、最期にあるのは「諦め」や「絶望的な結論」だけ。

Outの領域は長い歴史の中で思想家や哲学者が思考を繰り返してきた領域であり、そこで人類共通で幸せになれる何か1つの答えが出たことはありません。

そして、物事を疑い続け、思索に耽り続ける行為は彼らを幸せにしなかった、と私は捉えています。Watchmenで言えば、ロールシャッハのように「妥協するくらいなら死を選ぶ」という結末を幸せといえば、そうなのかもしれませんが。不完全性や不正に迎合することが出来ずに、絶望して死ぬか、発狂するか、といった最期になります。(このあたりは、コリン・ウィルソン『アウトサイダー』の序盤で話されていたように思います)

話がやや逸れますが、抽象化の方向性とは、個人という視点がどんどんと希釈されていくことに他ならなりません。その一方で幸福感を感じるのは個人という主観である故、抽象化すればするほど自分個人としての幸福から遠ざかることになります。抽象化の思考の末に(仮に生まれたとして)生まれた「幸せの答え」は、おそらく誰も幸せにしないものになると思われます。人類全員を幸せにするものは人類誰も本当の幸せにはしません。

Outで戦うことにも意味はある

そんな暗黒領域のOutに固執することは、良い最期をもたらしませんが、そこでなんとか藻掻こうとすることに意味はあると感じています。

抽象的な思考、メタ的な思考は自分のコントロール力を高めることへと繋がります。究極的には自分を「RPGのキャラクター」にしてしまうことです。マリオネット化して、自分は人形を操作する側の人格を作り出す、ということでもあります。

映画「ザ・ビーチ」で狂ったディカプリオ(これがタイタニック後の出演作です)

「自分が〇〇しようとしている」というのを認知し、それをする/しない、とコントロールすることで、直感に反する決断や、合理的な行動ができるようになります。誰かに怒られたとしても「これはゲームの中でそういうイベントなのである」と捉えることで、感情のダメージを軽減することが出来るようにもなります。

Outに身を置くことで、そんな人生の捉え方が出来るようにもなったり、どうせ意味など無いのだから、やりたいと思ったこと全部やってしまえ!というような思いっきりの良さが出たり、リスクを取りやすくなったり、それらが結果的にOut以下での現実的な世界での幸福感の増大に繋がったりします。

なので、Outすること自体にも価値はあると考えています。ただ、繰り返しですが、Out自体に幸福の答えはないので、固執することはおすすめしません。

“Out”したら”In”しましょう

なので、現実においてOutは「ゲーム外(Game Out)」なのです。戦場から外れてしまっているのです。だから幸福になりたいのであれば、意識的に「ゲームに戻る(Game In)」必要があります。

個人、組織、社会のレイヤーの個々にある類型から幸福を得ることが出来る、ということを思い出して戻りましょう。固執してOutに留まっても辛くなるだけ。

自分が今思い悩んでいることのレイヤーが果たして、ゲームの外なのか、中なのか。おそらくゲーム内に戻ることについて、俗世に迎合することを受け入れられるかのプライドが問題になると思われます。プライドが勝って絶望的な結果を受け入れるとして、またそれはそれで美しいと私は思いますが!(つまりロールシャッハ的エンドです!)

幸福レイヤーの勘違い

勘違いがもたらす問題

一旦Outの話はここまでにして、一旦ゲーム内の話に絞ります。

個人によって、幸福を感じやすいレイヤーがあると話しました。このレイヤーを用いることで、不幸な状況に関して説明が出来ます。

実は望んでもいない理想を「自分の理想だ」として、自分を騙し続けることはないでしょうか。

「白銀御行 部屋」の画像検索結果

それは例えば、対外的な見栄やプライドであったり、他者からの期待や圧力であったり、自分を守るためであったり。それがいつしか強迫観念的になって抜け出せなくなっていたり、そういった場面で自分を騙し続けることが生じます。

例えば、本当は関係性を求めているはずなのに、Vision/Missionから幸福感を得ている自分の方が良いと思い込み、Vision/Missionに向かった結果、幸福にはならず、大事な関係性を犠牲にして時すでに遅し、といったようなことが起きます。

これらは、①自分が根源的に求めているレイヤーと、②自分が(意識的に)ありたいレイヤー、の2つの間に乖離が起きている、という状況です。

自分自身をきちんと見ようとしないこと、そして理想がインフレ的に引き上げられ続けることによって、この乖離が生じるようになっています。

インテグレーション(統合)する

乖離した状態が続くことは辛いです。自分を偽り続け、自分自身が歪んでしまうことになります。この状態を解消するためには「インテグレーション」を図るべきと考えています。

インテグレーションとは、統合、統一、融合、一体化、集積などの意味を持つ英単語。 複数の異なる要素を組み合わせて一つにしたり、一体として機能するよう調整すること。

IT用語辞典 e-Words

①自分が根源的に求めているレイヤーと、②理想としてありたいレイヤーを適切に統合し、良い落し所を創っていくことがインテグレーションです。

インテグレーションの手順

自分自身の経験にも基づき、どのようにインテグレーションを行っていけば良いかのを手順を示していきます。

<手順>

  1. 自己の根源の像を理解・受容する
  2. 根源レイヤーで幸福を満たす
  3. 自分は今のままでは幸せになれない、という思い込みから抜け出す
  4. その上で自分にとって次なる論点設定を行う

1. 自己の根源の像を理解・受容する

スタート地点は本来の自分がどのようなことに幸福を感じるのかを、嘘なく偽り無く理解することです。この時に偽りたくなって高尚なミッションを掲げてしまうことがあります。

「合衆国日本ッ!」※高尚なミッションに生きる人のイメージです。

自分は大義に生きる人間であり、大義のためならば命を賭すことも出来る人間であると。

はい、そういうのはやめましょう。もちろん本気で思っているならば良いです。そういった高い志を本気で抱いている人がいることも知っています。

ただ、自分自身がそうであるか・そうでないかは、自分がよく分かっていはずです。違うならば偽るのはやめておきましょう。

ここでやるべきは、自分の平凡な部分、俗な部分、見たくない部分を含めて素直に観ること。これは他者の前では偽ってしまうので、自分に正直に一人で黙々とどんな時に楽しいか、幸せかを振り返ってみると良いと思います。

大事なのは、決して「美化」しないこと。

2. 根源レイヤーで幸福を満たす

美化しない形で、根源的な幸福のレイヤー、項目を認知できたならば、それをしっかりと満たしてあげましょう。

趣味で好きなことがあるんだったら、好きなだけやってみましょう。友達と一緒にいるのが幸せなのだったら、一緒にいましょう。

自分の場合は、つまり自分の根源レイヤーで強いのは個人の趣味とかです。物語創作物が大好きなので、映画、アニメ、漫画とか気が狂ったように貪ったと思います。

例えば私の場合、客観的に見たらそんなの堕落の極み。こんな模範的な現実逃避あるのか、といった感じ。だから1で美化してしまうのです。本当はやりたいことが世間的なイメージ、評価によって臆することでできなくなってしまいます。それが乖離の始まりになります。

ここで大事なのは「思いっきり」。好きなこと一回本気でやってみることです。

3. 自分は今のままでは幸せになれない、という思い込みから抜け出す

1 ⇒ 2の流れがしっかり出来ると2つのことに気がつくはずです。

①しっかりと幸せになっている自分がいること

おそらく、自分の好きなことにコミットすることで、楽しくなっている自分が居るはず、紛れもなく幸福な自分がいるはずです。

これによって「常に自分は幸せになることができる」ということを理解し、思考の枠組みをパラダイムシフトさせることが必要です。

具体的には、

「自分は今のままでは幸せになれない」

から

「自分は常に幸せになっている」
「単純に自分が”幸せにならない”ことを選択しているだけ」
「常に幸福はそこにある」

という、前提「ない」「ある」に変える、そんなシフトを起こします。

同様の内容は由佐美加子/天外伺朗著『ザ・メンタルモデル』にも書いてあったと記憶してます。「幸せじゃない自分は実は幸せだった」というインパクトは正しく次に進む原動力になります。

②何だかんだ飽きている自分もいること

そして、次にあるのは「意外と飽きている」ということ。人間は大抵のことに飽きます。所有欲も趣味欲も大体めっちゃやれば飽きます!

「これ人生でずーっとやってなくてもいいかな、、、」

って思えるようになる。これはきちんと満たしたからこそ分かること。

飽きていることを自己認知できれば、それらによる幸福は以降神格化されることはなく、次の幸福のあり方を考えることに進むことが出来ます。

4. 上で自分にとって次なる論点設定を行う

1,2,3を経て、一旦等身大の自分に気がつくことが出来る。乖離もどのように、どれだけ離れていたのかがよく分かるようになるはずです。

ここでしっかりと元来の自分に立ち戻り、満たさないでフタをしていたものにも、しっかりと水を注いであげることができています。

そうなれば、ここで初めてレイヤー移動が可能になると思います。健全に次に進むことが出来ます。元来の自分を知った上で背伸びして描いていた理想をどのように捉えるか、それでもやってみたいか、どのようにやってみたいか、などの論点が等身大の自分から離れずに見えてくるようになります。乖離していた2つに対して、適切な妥協点が見えます。

それがインテグレーションと、自分は捉えています。

ビスマルクの名言は間違っている、と言いたい

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

ーオットー・フォン・ビスマルク

鉄血宰相ビスマルクの上記名言はよく引用されていますが、これは使う人間と使う場面を適切にしないといけないと思っています。

『失敗の本質』など過去の他者の経験から学び、同じ失敗をすること無く活かそうとすることは非常に重要ですが、個人の人生レベルにおいては必ずしもそうではありません。

経験をしなければ納得が出来ない、自分の中に深く刻まれない、そんな人間もいます。少なくとも自分はそういったタイプの人間です。

私のような人間が、経験も無いのに表面的な理解だけして実感も伴わないことを「正しい」と思い込んでいる、それの方が愚かではないでしょうか。

ウィルがハーバードの学生を論破するシーン

グッド・ウィル・ハンティングのウィルは、古今東西様々な書から得た知識と、並外れた思考力を併せ持った天才ですが、経験としては何も知りません。

これは果たして本当の賢者なのでしょうか。経験による実感が伴わない知識が、自分を正しい道へ導くとは思えません。自分という人間の中にある仮説は経験を持ってでしか検証されない、と思っています。

インテグレーションも、その考えに基づいており、経験すれば自己の幸福に関する認識の解像度・精度が高まります。一回満たしてあげれば次に進めます。自分という人間を経験に基づいて理解し、その上でどうしようか、と考えるべきです。

“ありふれた”幸せを否定する傲慢

最近は、本当は存在しない自己実現の形を求めることが、煽られている部分があると感じています。「そんなありふれた幸せで満足していいの?」と言うかのような。

そもそも「ありふれない幸せ」とはあるのでしょうか。世界的に成功した人も結局は家族との関係性や趣味の時間に幸せを感じています。それらのために、成功するまでの莫大なエネルギーを費やしていた訳です。

そういった人でさえも、結局は「ありふれた幸せ」が大切だったのです。戦争で兵士が自らの命を賭して守りたいのは、祖国で生きる自分の大切な人が笑って暮らす平凡な毎日です。

存在し得ない幸福の理想像を神格化しても仕方がありません。ありふれた幸せは紛れもない幸せであり、ありふれた幸せの価値を貶めることは、自分にとって辛い結果しかもたらしません。自分で貶めたことによって、本当の幸せを享受したくてもできないことになります。

「メキシコの漁師とMBAコンサルタント」のジョークはこの点をよく表していると思います。

メキシコの海岸沿いの小さな村に、MBAをもつアメリカのコンサルタントが訪れた。ある漁師の船を見ると活きのいい魚が獲れている。

コンサルタントは聞いた。

「いい魚ですね。漁にはどのくらいの時間かかるのですか?」

「そうだな、数時間ってとこだな。」

「まだ日は高いのに、こんなに早く帰ってどうするのですか?」

「妻とのんびりするよ。一緒にシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子供と戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しみ、それで、寝ちまうよ。」

それを聞いてコンサルタントはさらに質問をした。

「なぜもう少し頑張って漁をしないのですか?」

漁師は聞き返した。

「どうして?」と。

「もっと漁をすれば、もっと魚が釣れる。それを売れば、もっと多くの金が手に入り、大きな船が買える。そしたら人を雇って、もっと大きな利益がでる。」

「それで?」と漁師は聴く。

コンサルタントは答える。

「次は都市のレストランに直接納入しよう。さらに大きな利益がうまれる。そうしたら、この小さな村から出て、メキシコシティに行く。その後はニューヨークに行って、企業組織を運営すればいいんだよ。」

「そのあとはどうするんだ?」

漁師はさらに聞いた。

コンサルタントは満面の笑みでこう答えた。

「そこからが最高だ。企業をIPOさせて巨万の富を手に入れるんだ。」

「巨万の富か。それで、そのあとはどうするんだい?」

と漁師は最後に質問した。

「そしたら悠々とリタイヤさ。小さな海辺の町に引っ越し、家族とのんびりシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子供と戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しむ。のんびりした生活を送れるのさ。」

漁師はため息をつき、やれやれ、という顔で一言を付け加えた。

「・・・・そんな生活なら、もう手に入れているじゃないか。」

本当に欲しい物をこねくり回して、得ないようにしていると、一生幸せにならないまま時間だけが過ぎていきます。家族を幸せにするために、毎日懸命に働いて、子供の誕生日も忘れて子供を泣かせていたら本末転倒、と思いませんか。何のために働いているんでしょうか?

解はない

もちろん1つの解など存在しないはずで、ただ自分が日々希望とエネルギーを持って生きやすい考え方を探り続けることが大切だと思っています。

今回長々と話してきたのは、これまでの自分の状態を、より良くすることが出来たのが上記の考え方、だったということに過ぎません。これからも考え方は変わりうるし、人によって合う合わないもあります。だから一人ひとりが考えることを止めないことです。

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