まだ名前の無い現実をどう捉えるか | 固定観念への服従と反抗

最近は、既存の言葉の定義を疑うようになった。

元々、なるべくその場に適した言葉を選定する努力をする人間であるが、そうなった時に、正しくその状況を描写する言葉が紡ぎ出せない場面がある。その瞬間に思う、「自分は自分たちの持つ言葉に支配されている」と。

意識的に言葉の定義を疑うようになると、いかに普段自分たちが良くも考えずに言葉を用いている、ということが分かる。

にも関わらず、その良くも考えていない言葉をベースに社会が形作られていることを理解し、それが固定観念として自分たちの認識さえも歪ませていることを知る。独り歩きした言葉によって支配されている。

もし、自分が普段何気なく使っている言葉の前提とは異なる現実があった際には、自分はどのように対応することができるだろうか。

本来あるべき言葉の用い方

学問的な言葉の起源を私はよくは理解していない。自分の中では「自分以外の個体に、自分が見たこと、感じたこと、思ったことを伝えるために、言葉は生まれてきた」のではないかと思う。

その前提は「個体が二者以上存在する」ということである。一人で生きているのであれば、言葉は要らない。自分さえ理解できれば、外に何かを表現する必要はない。自分以外の誰かに伝えたい気持ち、情報もない。

もし二者以上であれば、コミュニケーションが生じる。生きていく上で相手と自分の関わり合いが生じる。人間は生存戦略として「社会を築くこと」を選択した。単純な物理的な戦闘力では非力、足も遅い。サバンナに単身で武器も持たずに放たれたら、真っ先に狙われて餌になるだろう。

しかし、人間は現在その他の動物を出し抜き、地球上で強い立場を持っている。それは知能と社会を上手く利用したからだ。複数人の上に社会を築くためにはコミュニケーションは必要になる。言葉はそのために必要なツールなのである。お互いが理解できる意思伝達の形式、それが「言葉」になる。

既に現代は時代の中で積み上げられてきた言葉が用意されているが、きっと言葉の生まれ初めは、何か相手に伝えたい情報があり、それを相手に伝えるために言葉を作り出してきた、と考えるのが自然ではないだろうか。それが時代の中で積み上がった。

だから、言葉は本来は先に描写したい「現象や対象」が先にあって、それを後から言葉で名前を付けるのではないかと思う。

名前とはメモリの節約

言葉を用いて、ある対象に名前をつけることは「メモリの節約」である、と感じている。日々の中で繰り返し使う対象を、相手に対して伝えるために、伝えたい対象を指し示すために都度細かく描写をしていると面倒である。たとえば「犬」を指したい時に、

毛が生えた、茶色い、耳が2つある、可愛くて、4本足の・・・

なんて毎回言っていたら日が暮れてしまう。(更に、それぞれの名前(ex. 毛、茶色、耳・・・)についても、同様の説明が求められることになる)そういった特徴を持った対象を「犬」と名付けることで、コミュニケーションは迅速で円滑になる。

そうして使われ続けた名前は、私たちの日々に定着していき、その現象や事実を表すモノとして認められていく。

いつしか主従が逆転する

本来的には、①現象・事実がある ⇒ ②それを適切に説明する定義を持った名前を生み出す、という形であるはずであるが、いつしか逆転が起きる。つまりは、既に持っている名前から、現象・事実を当てはめようとする、ということである。

コミュニケーションにおいて、使い慣れた名前とそれが指し示す意味は深く結びつき、それは「固定観念」となる。「名前の独り歩き」とも言えるかも知れない。自分が認識している「名前」が逆に世界の見え方を規定するようになっているのではないかと感じる。

言語学には「サピア=ウォーフの仮説」という仮説が存在する。哲学的・言語学的な議論の上で出された仮説であり、当方専門ではないため、その議論過程を詳細には理解していない。

議論がなされていた当時「どんな言語も現実世界を正しく把握できる」という主張・立場が存在した。

思考は言葉に規定されたりなんかしないッ…!!

- 伊藤計劃『虐殺器官』より

一方でサピア=ウォーフの仮説は「言語は話者の世界観形成に影響する」つまりは「言語が人間の認識を形成する」という見解を示した仮説である。

ここではそんな高尚な仮説を扱うつもりはない、というか私の知識・能力では到底出来ない。しかし、新しい現実を都度新たに描写をすること怠り、今自分が持っている言葉・名前によって世界を捉え、無理に描写を行おうとしていることは、日々の中で現実として起きているではないだろうか。

言うなれば、自分の中に持った言葉を固定観念として、それに自分の現実は支配されている。そのような状態では、新しい現実が生じた際に上手く捉えることが出来ない。

更に悪いことには

単に言葉に支配されることはまだ良いとして、もっと悪いことが起きうる。自分が持ち合わせない、または自分の持っている言葉の定義に合わない、表現が出来ない現実・事象を受け入れられない、もしくは更に悪いことに、存在を否定しようとする。「そんなものは存在しない」「存在してはならない」と。

僕の辞書にはそんな意味の言葉は無い!

自分の持ち合わせた言葉(=固定観念)に主導権を奪われ、「新しいことを発見できない」「悪い現実を認められない」「周囲を傷つける」といったネガティブを引き起こすことになる。

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世界最速のハリネズミ

例を出すならば、ハリネズミはネズミの名前を冠すが生物学的にネズミではない、ということだ。

ネズミという名前が持つ固定観念に類似する特徴を持つから、ネズミという名前をつけたが、実際にはネズミではないということ。違う動物であるならば「ネズミ」という名前で説明される必要はないのだ。「ハリドン」でも「トゲマル」でも何でも良い訳だ。ハリネズミ君は固定観念の犠牲者なのだ。

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ネズミの事例は、既にある概念が新たな事実の説明に用いられたケースである。

その他の事例としては、既にある元々の概念の定義が甘く、事実が概念に紐付けたイメージから漏れているケースがある。それが「白鳥」だ。白鳥は読んで字の如く「白い鳥」である。これまでに見てきた白鳥の個体の特徴を捉えて名前をつけたのであろう。

しかし現実は異なる。「白鳥は白いとは限らない」のである。1967年にオーストラリアで黒い白鳥である「コクチョウ(カモ目カモ科ハクチョウ属)」が発見された(今は茨城県にもいる)。「白鳥=白い」という固定観念を持ち続けた人間にとってこの出来事は衝撃であり、決して起こらないと思われる事態がが急に起きた場合、非常に強い衝撃を与える「ブラック・スワン理論」が金融領域で用いられるようになった。

もし白いハクチョウだけではなく、コクチョウにも同時に会っていたら「ハクチョウ」という名前はそもそも生まれなかったのではないか。別の共通項を取って「クビナガチョウ」などと名付けられていたに違いない。

対象とそこに紐付けたイメージが狭くなっているのだ。そして「ハクチョウなのに黒い」という違和感を感じてしまうのである。現実としてもともと「ハクチョウは別に白いとは限らない」のにだ。現実なのに違和感を感じてしまう。これは固定観念に支配されていることを示すと思う。

人間関係における事例

人間関係を例に取ると、わかりやすく自分たちが、自分の中で固定観念化した言葉に支配されているかを体感できる。

2人以上の人間の関係性とは、本当に幅広く存在する。家族、友達、恋人、ビジネスパートナー、先輩後輩、同僚etc。それぞれ異なる切り口が存在し、その切り口の組み合わせによって、関係性に名前をつけている。

例えば「友達」という関係性の場合。

<ハード面>
関係性の合意有無
基本的に無し。「友達になろう」「うん!」からスタートするケースも無くは無いが、明示的にあえて「自分たちは友達」と確認することは少ないだろう。

金銭・報酬の授受
無し。お金で友達を買うことは基本的には無いでしょう。

血縁関係の有無
無し。兄弟や親のことを「友達」と呼ぶことはあまりないはず。「友達みたいな~」と説明することはあるかもしれないが。

自然発生/目的発生
「何かの目的達成のために友達になる」ということは恐らく少なく、学校でたまたま席が近くて話すようになって、とか意図せずに出会い、自然と仲良くなっていく、というのが友達としては多いのでは。

<ソフト面>
相手に対する感情
基本的にポジティブなもの。それ以外の描写は結構難しく、世間一般的には「恋愛的な感情ではない、その他のポジティブな関係性」みたいな捉え方が多いのではないか。

行動
話す、チャットするなどコミュニケーションを取る、遊ぶ、などといった行動が主なのでは。こちらも恋愛的な行動との対比が多いように感じる。「これをしているから友達」というような物は無いのでは。

名前を与えられない関係性

上記のような各切り口に対する答えの組み合わせで「友達」という定義が決まったとする。ここで敢えて、切り口の要素を別のモノにずらしてみる。

それぞれのCaseについて、二人は「友達」か?「友達」と呼ばない場合なんと呼ぶか?をぜひ考えてみて頂きたい。

Case1:
AとBは上記要素の行動として、一緒に住んでいる。それ以外は上記の定義のままで「友達」である。

Case2:
AとBは上記要素の行動として、一緒に住んでいる。相手に対する感情として、AはBに対して恋愛的な感情を抱いているが、それをBには伝えていない。それ以外は上記の定義のままで「友達」である。

Case3:
AとBは上記要素の相手に対する感情として、AとBは双方に恋愛的な感情を抱き、双方それを伝えているが、関係性の合意有無として、交際に双方同意はしていない。それ以外は上記の定義のままで「友達」である。

Case4:
AとBは上記要素の自然発生/目的発生として、ニューヨークでのビザを取得するために、関係性の合意有無として、2人は法的に結婚をした。それ以外は上記の定義のままで「友達」である。

Case5:
AとBは上記要素の相手に対する感情として、双方に愛情を抱いている。しかし、Aは既に法的に結婚して家庭を持っている。それ以外は上記の定義のままで「友達」である。

・・・なんて、色々変数を変えていくとどうだろうか。そんなシチュエーションあるか!なんて感じるのもあるかもしれないが、Case1、Case2はシェアハウス、Case3はラブコメマンガによく出てくるシチュエーション、Case4は映画『ニューヨークの巴里夫』の主人公グザヴィエ、Case5は『La la land』のミアとセブである。

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ビザのために形式的に結婚したいグザヴィエに全面協力する一家

創作を例に持ち出していることは不適かもしれないが、これらの関係性は現実として起き得ないということはできない。現に上記Caseと同じ状況の方を私は知っている。

恐らく「友達」や「恋人」といった既存の名前の枠組みで捉えようとすると、違和感が出てくる。これってそう呼んで良いのかな、と。こうなった時に、自分たちは固定概念の元で、既存の言葉に頼り、対象の説明を行おうとしていることに気づく。そしてその説明は極めて窮屈に感じる。

名前が無いからといって、存在してはならない、というのは馬鹿げた話である。既に存在する現象は「そこにある」のだから。別に罪を犯してる訳でも、誰かを傷つけている訳でもない。

それに対して「そんな関係は許されない!」というのは視野が狭い。固定概念に負けてその説明を放棄してはいけない。常に新たにその関係性に名前をつけることも出来るし、やって良い訳である。

自然発生的な人間関係は、2者間が望む居心地の良い関係性であれば良い訳で、名前や概念よりもその「実態」が重要で、別にそれにどんな名前が付こうが何だって良い。名前は後からいくらでもつけられる。なのに、既に名前と定義の決まっている関係性パッケージを適応・適合しようとしているから、上手くいかないのではないだろうか。

普段は外部パッケージを用いている

上述したように、人間関係においてはパッケージが多く存在する。

「恋人」というパッケージを例に取る。“告白”というのは、現代において一般的には「私と貴方の間における関係性に”恋人”というパッケージを適応しませんか!」ということになる。”恋人”は社会的通念として既に一般的なパッケージになっている。自分の中から導き出したのではなく、自分の外にある社会が用意した、という意味で「外部パッケージ」と呼べる。

パッケージの中には具体的な条項があって、いわゆる”恋人”の場合、例えば「浮気をしない」とか、色んな「〇〇する」「△△しない」とか、そういったものがデフォルトで含まれている。それが「人間関係の事例」で述べた「関係性の根拠となる要素」のことである。要素変数の値が変わることで、パッケージ名称からはみ出さないようにコントロールを図っている。また、当事者間によって話し合いが行われて、ベースパッケージのディテールにカスタマイズが図られることもある。(ex. 行動として、週1回は必ず会う、とか)

その他のパッケージでいうと、例えば「ポリアモリー」等が浮かぶ。一般的な1対1で交際を行う恋人の条項とは、ポリアモリーの場合は必ずしも1対1ではないという点で条項が異なったりする。

正確には、恋愛的な関係性、という意味では恋人パッケージはより上位概念とも言える。その中に、1対1、n対nなどでサブパッケージと見るのが恐らく正確。

オリジナルパッケージを創ることも出来る

上記挙げたのは「外部パッケージ」であるが、自分でパッケージを創ることも出来る。「開発目的に沿うプログラミング言語が無いから、自分で最適なプログラミング言語を作っちゃおう!」みたいなテンションだ。

利用シーンから、全体のコンセプトや細かい仕様を決めて、オリジナルのパッケージにして適応する。現実ではこの選択肢があることが、忘れられがちな印象がある。(工数は一旦置いておいて)すでに用意されたもので、どう上手くやるか、を考えがちだが、常に新たに用意する、という選択肢はある。既にあるプログラミング言語で窮屈に開発するよりも、よりシチュエーションに合わせたものを自分で作ってしまう、という方法もオプションとして存在はする。

繰り返しになるが、あくまで現実・事実として何があるかが先にあって、それに後から名前が付けば良い。オリジナルなシチュエーションに対して、対応するものがあって、それが既存の枠に当てはまっている必要はない。当てはまらないならば、新たに名前が付けばよいし、名前をつけなくともその存在を肯定すればよい。

だから、現在存在しない言葉で説明できない、固定観念にそぐわない対象について、それが存在すること自体に罪があるはずなどはない。それを新たにDescribeせず、存在を許容できないのは、固定観念に支配されている。事実は常に揺るぎない現実として「ここにある」のだ。となれば、改めるべきは自分たちの認識であろう。

認識が揃わない際の対応は「分解-再構築」

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複数の人間の間で、言葉・名前が噛み合わない時は、言葉を構成要素に「分解」して会話を行えば良い。概念をモジュールに切り分けて、構成要素レベルで話をすれば噛み合う。

交渉事はまさにこれで、戦争の平和条約締結の提案に対して「〇〇諸島をあげるから、こちらの領土は残して。主権もこちらで。」のような構成要素で交渉を行い、妥協点を探っていくことになる。それが、メインの提案の粒度でしか捉えられないと「0 or 100」のような意思決定になってしまう。

To be, or not to be: that is the question:

生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ。

また、物事の解像度をズームイン/アウトすることが出来る必要がある。解像度が高いほど、細かく分解して、その状況に合わせた適切な形に再構築をすることが出来る。

あなたの目の前に「森」があった時にどれだけ分解をして構成要素に捉えることが出来るだろうか?その景色をどのように描写・説明できるか。

解像度が低ければ、木の集合として「森」としか表現できない。解像度が高ければ、木だけではない、土、草、川、そこにいる動物、一本一本の木、それぞれの種類、など分解的に対象を捉えることが出来るだろう。

そして解像度の低い人間と、解像度の高い人間の会話は噛み合わないのが目に見える。こうなると、解像度の高い人間が、①低い側の言葉で会話する、②低い側の言葉を構成要素に分解するのを手伝う、ということしか出来ない。

普段から現実・事実を構成要素として分解し柔軟に捉え、それを再構築して1つの塊と考える。対象を構成要素として捉えられる細かい語彙や認知の感覚、目を持つことが重要である。

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