シン・シソウ | 虚無感と無意味さを超えて

高校~大学~社会人と進むにつれ、色んな経験やインプットから新たな知識・考え方を吸収し、自分自身の考え方も変わってきた。一方で考えれば考えるほどにアウト領域でのドツボにハマり、答えの出ない問い、深く考えてもあまり意味が無い問いであっても考えてしまうような状態もあった。

その結果、虚無感や無意味感、答えが出ないこと対するモヤモヤを感じ続けてきた。しかし、最近になって良い形で、分かっていながらも長年自分で自分の首を絞め続けてきたアウト癖を乗り越え、自分の中での思想を次のステップに進められたような感覚を得た。

得たのは「この世界でどう生きるか」の1つの解

生じた変化とは、この世界でどう生きるかという事について、誤った選択肢を捨て、正しい論点が設定が出来た、ということである。

もう少し言葉を加えると「今まで自分が考えてきたことがなぜ無駄であったのか」について納得ができ、そこで「すべてに意味がない」という”虚無”に陥ることなく、では「何は考えるに値するか」について、論理的・経験的に納得できる形で、新たに生産的な目的設定が出来たことだと考えている。

具体的には「対他者、対社会という”関わり合い”の中でどう生きるか」が論点であり、特に「社会の実際的な問題解決にどのように貢献するか」が重要であるということに納得がいった。

(長々と時間をかけてこの結論、アイセッカーとしては”あれっ”という感じではある)

恐らくこれからも人間として色々な悩みを抱えることは当然あるだろうが、そこで非生産的な領域にスコープアウトすることは無くなるし、適切な範囲の中で悩めるようになるだろう、と思っている。

知識×論理×経験 ⇒ 大きな納得感

今回得たこの感覚は、色んな条件が満たされた結果としての状態だと思う。

「知識」として色んな情報に触れたこと、「論理」として様々な知識・情報を組み合わせて構築した枠組みや概念をなぞったこと、そして自分自身の「経験」として色んな感情に触れたり、トライが積み重なったこと。

結論自体は「当たり前」という感じだが、自分自身がそれを受容できるかというのが大切で、「知識」×「論理」×「経験」の3つが上手く噛み合って、受容に足るくらいの高い納得感が得られたということだと思う。一番大きいのは、大学時代で急に得た知識や論理に経験が追いつかず、頭でっかちになった所に、多少は経験が付いてきたみたいな感じだろうか。

以降は、自分がここ1年くらいで変化した「知識」「論理」「経験」などについて書いている。現段階では、色んなインプットがまだ食材として調理しきれておらず、形が残っているような状態である。(今回引用フェスティバルになっているのはそういうことである)

この辺りは今後じっくりと噛み砕いて自分なりの言葉に変えていきたい。

世界観をスクラップするときはビルドも一緒

『シンゴジラ』より

初めに心構えとして。自己の思想や世界件を入れ替えて新たにしようとする場合は、スクラップとビルドはセットにして行うべきだと感じた。イメージとしては「ビルドできないならスクラップしない」という表現が割としっくりくる。

スクラップだけして次のビルドができないと、精神的な拠り所や方針を失って不安定になる。そんな状態が続くよりは、現在の暫定思想をスクラップしないでおくほうがマシだったりする。

もし現在の思想に問題を感じてスクラップしたいと思うのであれば、ある程度代わりにビルドできるものがありえるのか、という点は抑えておいた方が良い。

例えば、民主主義の問題点だけあげて「スクラップしよう!」っていってスクラップしたけど、結局民主主義に代わってビルドできるまともな思想が無いと後で分かってカオスみたいな事態。これはマズい。

まあビルドできるものが事前にあるかどうかが分かれば苦労しないし、思想のアップデートなんて半ば自動的に無意識的に起きているものであるので、実際不可能に近いのかもしれないが「新たにビルドできるものが無いとスクラップしても辛い」という認識は持っておいたほうが良かったなと。

全ては受容の問題

そして”笑撃”のラストへ

実存系小説やSF小説(特にテッド・チャン)、あとはユヴァル・ノア・ハラリ3作を通じて「世の中全部奇跡・偶然だよね」ということに非常に納得できた。もちろんこれまでの人生経験も含めて、自分という存在の奇跡、人と人との偶然の素晴らしい出会いといった経験によって裏付けられている。

世の中全部偶然なんだから、となると「すべては受容の問題」であると見えてくる。

自分という存在にはそもそも必然性も無く、説明も出来ない偶然の結果、つまり”理不尽な存在”でもある。その一方で、自分に対して起きる世の中の理不尽が受容できない、という面白い性質がある。

そして論理を取り除いた所で、この世界は変わらずに存在し続ける。人間の言語に基づいて生み出す論理は世の中の説明にしかならず、その説明は物理的な世界に干渉しない。物理的な干渉によってのみ、世界には差が生まれることになる。

理不尽というのは、人間が受容できる・納得できるだけの論理が見出せない状態ということでもある。例えば、神話や宗教は合理的に信じられる証拠が無くても人々は信仰している。信じる人は「宗教は理不尽だ!」とは言わない。だから、結局は論理的であることも、人間が受容するための一要素でしかない。非論理的なことも矛盾も人間は受容できるように出来ている。

動物がかわいそうという理由でベジタリアンになる人が、生物であるはずの野菜は食べてOKとするのも、生物の中に自分が納得できるラインを引いているということであり、サイゼリアでエスカルゴが美味しく食べられるのも、虫もパウダーにしてしまえば食べれてしまうのも、食べているものは変わらない訳で、自分の中で受容できる形を模索している、ということだと思う。

なので、論理をこねているのは、受容できる理由を探しているに過ぎない。自分自身も「いかに生きるべきか」について、何か目新しい結論を求めていた訳のではなく、あくまで自分が受容できる論理・考え方・経験を探していた、ということなのだと思う。

物理世界と意識の独立性

ドラマ『オルタードカーボン』では、”スタック”に人間は意識をデジタル化して保存する

小説の『異邦人』や『嘔吐』、あとはSF『ゼロで割る』、ACTの本『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』あたりが印象深い。自分たちが生きている物理世界と、自分という「自己意識」は独立していて、あくまで自己意識が物理世界に干渉するには、物理世界にある自己の肉体を通じなければならない。自己意識と肉体のつなぎ目は明確には分かっておらず、未だに哲学されていたり、自然科学的に研究されている。

自己意識における思考と自分の行動は独立であり、自己意識で考えたことが行動に移るとは限らない(ex. 「右手を上げる」と考えて「右手を上げない」ことが私たちには出来る)。

本来的には相手の自己意識や、相手の内部で何が起きているのかを、人間間で共通のルール「論理」を用いて、相互に理解しようとするのであるが、自然科学的なものを除いて、論理に筋が通るかの判断はその時代の常識や人間の常識によってバイアスがかかってしまう。「太陽が眩しいから~」のムルソーは実際には全然ある話だとしても大衆には理解はされない。

こんな状態で、人間の中の思考や論理に固執するのは、あまりよろしくない、という自分の中での理解が強まっていった。適度にほどほどに。

「哲学は解き終わった」という人たち

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』という非常に難解な本に触れた。内容の恐らく10%も理解できていないのだが、解説などに手を借りながら要旨は理解した(つもりになった)。

彼は自分たちが表せられる「言語」によって哲学の限界(境界線)を引き、自我・意志・倫理・価値・神といったもの(=哲学や宗教でよく扱われるテーマ)は論じることが出来ない範囲にあるので、黙りましょう、と言った。その証明ロジックは『論考』や解説書を読んで頂きたい。

これは「なるほどね!!!!」って感じ。

考えても仕方ないことを考えても仕方がない、ということを、20世紀最高の哲学書の1つから示され、自分が人生をかけて考えようとも、これ以上の結論に至れることは無いよね、ということで納得してしまった。

そしてもう一冊、命という身銭を切った哲学者、須原一秀氏による『現代の全体をとらえる一番大きくて簡単な枠組』の中でも「哲学は溺死した」と主張される。

人類の思想は以下の5×2の「思想」に大きく(厳密にはもっとあるとしている)分類され、思想に対して最終解答を出そうとした「哲学」は既にそれに失敗し、この枠組みの中で単なる各論に陥ったり、相互に批判を続けてきたにすぎないという。

個人主義ー全体主義

結果主義ー心情主義

③科学主義ー神秘主義

真実主義ーソフトウェア主義

肯定主義ー否定主義

そんな彼の結論は「もう哲学は溺死したので、不毛なこと続けていないで、目の前の現実世界を良くしよう」というものだ。

須原氏もウィトゲンシュタインから続く分析哲学を研究していたということが興味深い。だからこそ「哲学は既に終わっている」という結論からスタートしていたのかもしれない。

また『哲学の教科書』などを書いた中島義道氏も以下のような考えを持っているという。(wikipediaより)

「哲学はまったく役に立たず、自他の幸福を望むこととは無関係であり、反社会的で、危険で、不健全なもの」であり「それにもかかわらず哲学をしなければ死んでしまう全人口の1パーセント未満の人のためにのみ哲学を学ぶ「真の場所」を設置すること」を推奨している

このように結論付けながらも、皆それでも哲学をやっているという所で、哲学という活動が自身の一部にまでなっている方々なのだろうなと思う。

偉大な哲学者たちにこんなことを主張されたことに加え、考えても結局何も結論は出ないという自分自身のこれまでの経験によって大いに納得。「意味を模索することの無意味さ」については、知識×論理×経験によって受容の問題は解消された。

虚無に対抗するためにビルド

地獄へようこそ!

で、ここまでで言えば「思考しても意味ナッシング!Let’s 虚無 together!」なんて結論もあり得るのであるが、ここは自分自身の「この素晴らしい世界に祝福を!」的な体験(通称このすば体験)と、原始仏教や神話、あとはACT(Acceptance & Commitment Therapy)的な思想が上手くマージして、虚無を乗り越えるだけのものを、この世界に見出せたように思う。

幸福感や欲求には際限はない。幸福になっても、より高い幸福が欲しくなるだけである。だから人間の生活の質は人類の歴史を通じて確かに上がってきたのかもしれないが、幸福度でいえば別に大して変わっていないのではないか、ということを割と確信している。

よってこれからの未来も「人類の幸福」を世界の良し悪しの絶対的なパラメーターにはならないと考えている。その先にあるのは、満ちることの無い欲求という底なし沼での溺死である。欲求や幸福には執着しない方が良い。

人類そもそもが偶然の存在であることを忘れてはならない。野生の生き物を見て「彼らは幸福になるために生きている」と思えるだろうか。驕ってはならない。人間も例外ではない。

その代わりにビルドするものとして「自己の感覚の存在」だと考えている。この世の中には、言語や論理を超えて脳を直接に乗っ取ってくるような圧倒的な美しさ、夜の河原を歩いている時にふと訪れる幸福感、理不尽や逆境を乗り越えて人々を奮い立たせるような雄姿、一方で時に味わう苦しみや悲しさがある。

そして人類という偶然×自己という偶然=MAX偶然の中で、それらを「美しい」や「苦しい」ということを感じられる、今感じているということの奇跡。本来隔絶された物理的世界と意識世界の自己の間で起きる共振は素晴らしいなと。

そこに人間であることのエッセンスと意味を見出すようになった。

自慰行為を続けても、この世界にいないも同様

ここまでの話は結局は「自分」という個人の中で、いかに納得できる答えを見つけるかという話で、あくまでの自己の中での折り合いについての話であったように思う。

しかし、自分個人における納得や虚無感からの解放とは、世界に何も差を生みだしておらず、それは一種の自慰的行為に過ぎないということになる。

上述の「意味はありません、終了です!」+「体感できる、素晴らしい!」で終わっていたら、自慰的行為・自己満足と言われても仕方がない。なんせ、自己の肉体の中でこれまでの悩みから解放されたところで(行動は同じという前提で)何も世界に差は生まれていない。

この点については、『アウトサイダー』のコリン・ウィルソンと立花隆の下記対談においても、その批判が挙げられている。(4:00あたり~)

個人も他者や社会とのつながりによって、自分が他者や社会によって生み出す影響によって、自分の存在を認識している。この点を今回のコロナ禍によって在宅を強いられる中で、特に単身世帯の方は、人間との対面でのコミュニケーションも激減し、そのように感じられた方は少なくなかったのではないだろうか。

そのつながりや影響がなければ、自分が幸せであろうがなかろうが、社会自体は何も変わらない。言い換えれば、別に自分という存在はあってもなくても変わらないという事になる。

しかしその一方で、社会に何か変化を生みだしても、すべては偶然のかけ合わせの”運”であるし、人の幸福を増やすことは出来てもその際限は無く、そこに内在された意味も無く、人間が外から意味を与えようとするだけであるという認識もあり、それによって改めて虚無を感じる点もある。

しかし自分の場合においては、自分が接してきたこの世界と人間の素晴らしさが優る。自分に不幸があって一緒に悲しんでくれる人がいること。そして自分に良いことがあって一緒に喜んでくれる人がいること。自己を中心に意味を見出すことは不可能でも、社会や他者との関わりの中では、十分な意味を”体感として”見出すことが出来る。

また、すべてが偶然で生産的であること・非生産的であること自体に意味がないとしても、自己の存在意義を他者・社会との関わり合いによって体感的に得ていることで、自分は対他者・対社会に非生産的であることよりも、生産的であることに価値を感じられる。

特に、仕事の意味、人が働くことの意義は「社会への参加」にあると思うようになった。

ここまでのまとめ

こんな経緯で、論理の思考に基づいて自分の中に何か答えを見出そうとすることはあまり意味がなく「対他者、対社会という”関わり合い”の中で自分がどう生きるか」こそ、ちゃんと考えるべきだと思うに至った。

ここまでの流れを見るに、論理や知識だけであれば、おそらく虚無に負けていたところを、これまでの人生における経験でカウンターできた、ということだと思う。

人ごとに同じ結論に納得できるかどうかが異なるのは、結論が適用されているその人間という”コンテキスト”、知識×論理(思考の枠組み・フレーム)×経験が違っているからだということだ。

では、じゃあ対他者や対社会に絞って考えるべきとなった時にどうするのか、というのが後半パートの話になる。

世界には新たな「物語」が必要とされている?

「はーちくじーーーーっ!」物語シリーズより

ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で「ホモ・サピエンスは、複数の個体が共同の虚構を信じることによって繁栄した」と説いた。その虚構がキリスト教のような宗教であったり、資本主義といった思想であったりする。

受容の問題として考えると、人間は虚構を作り出し、それが人類に受容し続けられるかの試行錯誤を繰り返して来ている。人間が納得できない矛盾や否定、理不尽を抱えたままに活きることは苦しく、同じ結論であっても、納得できる・信じられるストーリーを人類は必要としてきた。

ボトムアップ的な物語

で、現在は資本主義×民主主義が世界的には多い枠組みではあるのだけれど、最近はポピュリズムに陥ると危険だとか色々と問題が挙げられている。

元英首相チャーチルが民主主義について以下のように言ったというのは有名な話だ。

… democracy is the worst form of Government except for all those other forms that have been tried from time to time.…

人類がこれまでトライしてきた色んな政治形態と比べれば一番マシであるということだ。(ちなみにチャーチル自身もこの言葉は誰か引用しており、その起源は不明であるようだ)

この点、前出の須原氏も同様のことを述べており、民主主義×資本主義×科学主義は、人間の欲望を吸収するブラックホールと言いながらも、民主主義は多様な個に溢れた社会において最悪のケースを防ぐための最低限必要な枠組みであると主張する。

須原氏は、ポル・ポト政権の元幹部の話を注記に挙げている。

「カンボジアで大虐殺を行ったことに後悔は無いか」と特派員が元幹部に露骨に尋ねると「悔いが残るのは目指した理想を実現できなかったことだ。私は高潔な社会を作りたかった」と答えたという。

ここに人間の両面性、矛盾を持った性質を認めずに、ある思想・価値観に基づいて、良い/悪いを判断して白黒をつけようとする社会が構築されることの危うさを示している。

人類に共通の唯一絶対の真理や正義の証明には、既に哲学が失敗しており、”最もマシなもの”以上の思想はビルド出来ないので、残りは「消極的場当たり的な問題解決」を行っていくしかない、とされる。

場当たり的問題解決とは「人間にとっての共通の正しさは揃えられないが、直感的な正しくなさは割と揃う」という性質に基づいて、起きる問題を個別具体的に逐一問題を解決し、ボトムアップ的に前進していくということだ。

この点、私は「いや直感で不正義とか不真理とか本当に揃うんかなあ」とやや懐疑的でもあるが、理想ドリブンが不可能である以上、場当たり的に解決するしかないというのは消去法的には納得が出来る。

この点、トルストイ『アンナ・カレーニナ』にて「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」という有名な言葉が思い出され、直感的に須原氏と反対っぽいことを言っているので面白いと感じた。

ただ須原氏は概念の話、トルストイは概念が生活に具現化されたレベルでの話をしているので、食い違ってはいないのかなと思うし、別にどちらが正しいとかそういう話でも無いのかなあと。

SF的野心的な物語

で、結局場当たり的対応しかできず、新たな物語を作ることは出来ない、ということであったが、須原氏が先の本を書いたのが2005年であり、そこから15年が過ぎ、新たな物語が見えてきているのではないかと思う。

それは、人間ではなくアルゴリズムによって「正しい/正しくない」を判断させるという「データアルゴリズム主義」という思想だ。分かりやすく言ってしまえば、アニメ『PSYCHO-PASS』に登場する「シビュラシステム」である。

「シビュラシステムが決めたこと=正しいこと」ということにしてしまう。

シビュラシステム

既にAIのアルゴリズムも人間に理解は不能になっている。アルファ碁の指し筋はプロ棋士にも理解が出来ない。プロセスをAIにすることにより、人間には理解できないように意思決定プロセスをブラックボックス化することで、人間にとっては公平性が生まれる。人間では唯一絶対の真理を生み出すことに哲学は失敗したが、これを人間を超えて、そして第三者に委託することで乗り越える。

私はこれは人工的に作り出す「神」でもあるように思う。既に人類の大半はデータ・アルゴリズムの恩恵を受けてそれに慣れつつあり、既に”信者予備軍”くらいにはなっているのではないか。

生活での具体的な功利を生み出し、人間の誰にも理解ができないことで公平性が担保されるという点で、民主主義に代わる候補としては最も有力であるかもしれない。一方で人間性の消失など、種や哲学的な論点を孕んでいるものでもある。

だから後は、初めにも述べた通り「受容できるか」の問題である。

オーバーロード

A・C・クラーク『幼年期の終わり』にはオーバーロードという宇宙人が登場して地球を支配する。こういった超越的な第三者による統治の元に安定的な繁栄が成立するのかもしれない。そしてこれが宇宙人であるよりは、生物ではない「機械」の方が人間の被支配者的な印象は弱くなり、受け入れやすさはある。(もちろんに存分に論点はある)

ハラリもこのままいくと、データ・アルゴリズム教が主になり、更に人類最大の課題である「自己意識の謎」や「死の超越」にも、科学を持って干渉することで、ホモサピエンスという種を超越し、ホモデウスが生まれるといった。そして全ての人間がホモデウスになれず、人間と猿のような”種レベルでの大格差社会”が発生する可能性をハラリは主張する。

これらはあくまで選択肢ということで、まだ選択権は人類が持っている。人類は改めてどういった方向性に進むのか、各々の思想に従って具体的に行動し、自身が望ましいと考える未来に軌道修正していくことが求められている。

今回のまとめ「で、どう生きるの?」

これら踏まえて「あなたどう生きますか?」という所で言うと、ひとまず具体レベルは置いて、

  • 自己のどうこうについて執着しないこと
  • 他者や社会に対して積極的に関わること
  • 問題と感じたことに対する問題解決を進めていくこと

なんだろうなと思う。

結論としては目新しさも何もないんだけど、ちゃんと納得できるくらいに、そして生き方の方針になる程度のものがビルドでき、自分の中では一つ壁を越えたなという感覚がある。

この辺りは結局他者と比較しても仕方がないし、自己の個別文脈に落とせることが大切で。なので、ここまでの思考ジャーニーには十分に意味があったように思う。

アベンジャーズ・エンドゲームで以下のようなセリフがある。

大義の為に個人の幸せを諦める必要はない

大義と個人の幸せが二項対立でなく、100% or Nothing でもないことも理解の上で、今回の自分の結論としては「大義(=自分という範囲を超えた他者や社会といった主体)」にこそ、自分が受容できる有意義な生き方がある、ということだったと思う。

これからは、より良い他者・社会との距離感、関わり方を模索していくことにしたい。