論理感覚

「何も無い」で満たされた無限の空間を考える。いや、無限である空間を「満たす」という言葉自体矛盾しているのかもしれないが。

私たちがその空間に突如として放り込まれたとする。さあ、私たちはどこに行くだろう。いや、まずこの問いの設定が誤っているだろうか。正しくは

「どこに行けるだろう?」

であるだろう。

宇宙空間に放り出された人間は、エンジンなどの推進力無しに移動することは出来ない。どんなに頑張って泳ごうとしても抵抗のその無い空間では、その体はただ慣性に従うだけになる。だから、何も持たずにただ放り出された人間は、どんなに頑張ろうが藻掻こうが、どこにも行くことは出来ない。少しだって前に進むことさえ出来ない。

私は人間がその頭に持つ「論理の世界」をそのように捉える。

では、その中で前に進むためにはどうすればよいのか?

それは

「足場を作ること」

になるだろう。確かな土台を足場に持ち、それを蹴って前に進んでいく。この土台が無ければ、私たちは虚空をただ漂い続けるしかない。

古来多くの人々が「確かなもの」を求めて頭を悩ませてきた。「神」だとか「考える私」だとか「存在」だとか。

何も無い虚空の中に考える対象となる材料自体そう多くは無いから、この無限に広がる空間という世界に求めるか、あとはその空間に浮く自己の内部に求めるか、あとはそれらの切り取り方次第だ。それらを地盤としてその上に建物を作る。

それらの建物は論理で組み立てられる。堅強な論理で組み立てられた建物は叩いてもビクともしないし、寄せ集めたような論理はちょっとした風で吹き飛んでしまう。

しかし、どんなに堅強な論理もその足場を失えば直ちに転倒し、虚空を漂う巨大なデブリと化す。我々全てが内包される虚空のルールには誰も逆らえない。

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「小さな粒子」で満たされた、ある空間を考える。我々のある世界において、その小さな粒子はどのように存在するか。

①遍在する
②偏在する

答えは「②偏在する」である。

私たちは時に論理的にあり得るパターンを網羅的に検討してしまう。空間を1cmの立方体に等分し、それぞれの中心に粒子が存在すると想定することがある。どこから眺めても美しく整理された空間を想像する。

それを網羅と呼び、可能性と呼び、犬の道と呼ぶ。

本当はそれではいけない。人の世界に遍在はあり得ない。現実では面白いほどに偏る。人間臭く偏る。

それを仮説と呼び、蓋然性と呼び、直観と呼ぶ。

バベルの図書館には、10の1,834,097乗の蔵書があるが、その中でも意味を成す書物はほんの一握りである。意味を成す本・成さない本は、単語と文法のルールによって規則が成立しその時点で偏る。何より私たちにはそれを読めば、それが意味を成す本であることを即座に理解する。

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寸分も狂いのない等間隔のマスを敷き詰めたような緻密な論理を組む人がいる。1歩1歩段を昇り降りをしていき、誤れば1つ下がる、正しければ1歩進む。前提が崩れれば3歩下がるが、横にずれてまた1歩ずつ前に進む。

命を持つように力強く歪な形をした論理を組む人がいる。その中に入ることを許さない歪んだ大きな建造物を自らの中に持ち、周囲を自らの重力で引き込んでいく。いきなり斜めに10歩進んだり、真横に5歩進んだり、時には黙り込みさえする。

人と話せば、その人の論理がわかる。どんな建物を建てているかが見える。立ち入り禁止の特大カテドラルをその内に持つ人もいれば、小さなお家を何軒かお持ちでその中によく招待してくれる人もいる。

一方で、建物を建てない人もいる。自分で建てていないのに、なぜか建てる知識は人より持っていて、その知識で人の建物を分解してその中に押し入ってきたりすることもあるし、一方で建築に的確な助言をくれることもある。

論理には、人がよく見えると思うようになった。