「論理さん」との上手なお付き合い入門

近頃本を読んでいると、現実世界と自己・意識の関係について書いているモノが多いと感じる。私が無意識的にそういった本をチョイスしている、またはそういう風に読み取ってしまう・読み取りたいバイアスが掛かっている部分はある。

自己と世界を考える上で論理が欠かせない。人間はこの世界を論理によって紐解き、理論として体系化する。そして生み出した理論に基づいて、この世界に上手く干渉しようとしてきた。事実それによってこの世界は大きく変わっている。

だから、人間の理解の通りに世界が動いている、なんて思いがちなのだが、でも本当にそうであるかというのはすごく怪しいなあというのが最近思うところである。今回はそんなことを書いています。

論理と現実世界の関係性

エイミー・アダムス、ジェレミー・レナー出演で映画化された「メッセージ」の原作、テッド・チャン『あなたの人生の物語』。同作内に収録されている『ゼロで割る』というSF短編がある。

この作品では、とある数学者がある時、ゼロで割るような”インチキ”を用いずに「1 = 2」になることを数学的に正しく証明してしまう。この証明により数学は現実とは全く無関係の行為となってしまう。例えば、自分が指で数を数える時、それは数学とは全く無関係のものになる。なぜなら数学においては、1+1は2であり、3でもあり、100でもあり、指を1本ずつ折って数を数える行為とは結果が異なってしまうからである。

自分を取り巻く世界と、自分がこれまで信じてきた数学が全くの無関係になってしまったことで、この数学者は世界に対する見方がおかしくなってしまい、精神的に追い込まれてしまう。

作品全体としては人間関係の話なのであるが、今回扱いたいのは上記の「論理と現実世界の関係性」の部分で。ノンフィクションとしても、人類はこの現実世界を長い歴史の中で種々の学問において説明を付けてきた訳なのだが、それは結局どういう意味を持っているのだろうか、という問いがこの本を読んだ後に思い浮かんだ。

この世からそういった学問や、学問から見いだされてきた概念や意味を取り除いた時に、この世界は一体どうなるか?

もちろん上手く回らなくなるということはあるのだろうが、その瞬間に人類という存在が物理的に消え失せるようなことはない。そもそも意味や学問が生まれる前からこの地球は、この世界は、ずっと存在し続けている。

論理的な矛盾が存在したとすると、この世界は一体どうなるか?

同じだ。何も変わらない。論理という考え方自体man-madeだ。自分たちの論理や世界の解釈に矛盾や欠陥があろうと、この世界は悠然と存在し続ける。こういった世界の捉え方は、実存主義の考え方に通じる。

自分の中で用いる論理

自分の考えを他の人に説明して「矛盾している」とか「それ筋通らなくないか」とか、自分の中で「自分がこれをすることが正しいのだろうか」とか、論理に基づいて考える場面は多い。

しかし論理を、その意味や使い方を間違えると厄介なことになる。「自分はどうあるべきか」とか、対現実・外部との関わり合いをスタート地点として意識しない思考については、論理的に考えることは割と不毛だったりする。

別に矛盾していようが、矛盾してなかろうが、何が起きるわけでもない。自家撞着であっても自分は存在し続ける。結局、自己探求的な行為は自分という意識の落ち着き場所を見つけるための行為であって、その中での論理は場所についた時に落ち着けるかに関する単なる一要素に過ぎない。(逆に言えば一要素ではある。論理というプロセスに基づかずに結論を出すことに不安を覚えてしまうことはあるだろう)

論理がどうでも良いというなら、別に筋が通ってる or Notなんて無視しておけば良い訳で。プロセス無視で求めている結論にいきなり飛びついてOKで。その瞬間に感じたいことが感じられている、ということが全てになる。

他者から自己内面の思考について矛盾を責められたところで「矛盾しているけど、So What?」ということなのだ。矛盾を認知した瞬間に自分という意識が消えてしまうことはもちろん無いし、矛盾しているから上手くいかないとか、やる気が出ない、とかも全く関係ない。矛盾していても元気な時は元気だし、やる気が出る時は出るし。自分の中の論理というのはその程度のものだ。

この世界の中での論理

一方で現実世界における論理はルールが決まっていて、それが我々が「世界のルールだ」と認識していることと一致しているかはさておき。(『ゼロで割る』の例の如く)

でも、人に話しかければ返事があるし、傘をささずに外に出れば雨に濡れるし、車に轢かれれば大怪我するのだ。経済的に成功するには「勝つためのルール」も決まっている。これは人間のルール認識の正誤はともかく、事実として発生する。これらが発生するということも自分の中での意味や論理とは無関係だ。行動として何かをすれば何かが起きる、ということは決まっている。

本来は全く別世界のルールを人間はどうにか理解しようとし、なるべく正確な形で理解を近づけて上手く干渉してきた、というのがこれまでの人類の歴史だ。しかし、本質的に自分たちの意識とこれらの世界の間にある隔たりが埋まることは無い。

論理と称される”常識”

「人生一度きりだから頑張る」という考え方は非常に心地よい。自分はこの言葉にすごく共感する一方で、これって実際は非常に支離滅裂なこと言っているとも思っている。

なぜならば、今この世界を生きる70億人全員にとって、例外なく人生は一度きりであるはずなのに、頑張っていない人も大勢いる。だから、心打たれるこの筋が通っているような言葉も筋が通っている訳でもない。

もし「人生一度きりだから頑張る」という理由で頑張っている人がいれば、そういう理由(の理解)で頑張っているのであり、もしくは頑張っている別の理由があり、またそこに理由は無くても良いのである。その人にとってその論理が単に心地良ければ良い、そう思い込めていれば良い、というか頑張れていればきっと理由は何でも良い。

AだからBになる、という自分たちの中での筋・論理というのは、あくまで「自分たちの経験から理解できるか否か」という目線からバイアスがかかっている。論理的であるかというのは「自分たちから考えて常識的であるか、人間的であるか」という判断であるように思える。

『異邦人』で「太陽が眩しいから殺した」と述べたムルソーは裁判で、当然の如く誰にも理解されない。でも、本当は「好きだから殺す」も「嫌いだから殺す」も成立しうる。もっと言えば「何もないけど殺す」も成立する。なぜならば現実の世界と自分の中で何を考えているかは突き詰めれば無関係なのであり、行動と動機の不一致を「論理的ではない、筋が通らない」と思うのは、一般的な人間として受け入れられないからなのである。

だから、一般的の中身が変われば論理や筋も変わることは、現にこれまでの人間の歴史を見ていれば想像に難くない。戦争・奴隷・差別・生贄など、現代人から考えれば強烈な概念も、それぞれの時代からすれば”一般的”だった。

各時代においては各時代の論理がある。それに反していれば「筋が通らない」とか「異常者」と言われる。いつも我々が拠り所にしている論理なんて結局はその程度だ。

だから「論理さん」のことは、過度に信頼せず、適切な距離感が丁度いい。