今日も私は論理と戯れ、哲学者はオカルトする

ここ1ヶ月ほどは割といい感覚で生きていたように思う。人はそれを充実と呼ぶのかもしれないし、もしくは追い込まれてると呼ぶのかもしれない。まあいずれにせよ、そんな状況のこの1ヶ月の中で「ブログを書く」という行為は、私の頭のTodoリストの中では相対的に下の方へ追いやられていたということだ。

真空があればそこに空気が流れていくように、凹みがあればそこに雨水が貯まるように、何も考えずに散歩をしていると面白いアイデアが思い浮かぶように。忙殺の最中よりも、きっとそんな時にこそブログを書きたくなる。

つまり、今晩に筆を取りたくなった私は少し気持ちに余裕が出来たということなのだろう。さあさあ、ここ1-2ヶ月の間に頭の中で寝かしておいたことを引っ張り出すとしよう。

法則の優劣と美しさ

法則の価値の指標の一つとして「応用可能な範囲の広さ」が挙げられるように思う。1つの事象のみに適応・説明ができる法則よりも、100つの事象を同じ用に説明できる法則の方が優れている(≒洗練されている)と考えることができる。優れた方程式は、自分の身近な現象と、宇宙レベルで起きる壮大な事象を1つの方程式によって同じように説明ができる。(これを学者肌の人は「美しい」と感じるようだ)

哲学で続けられてきた真理の探求というのはそういったもので、適応範囲をどんどんと広げていく中でも「常に “正” であり続けるものとは何か?」というのを考え続けてきたみたいなことなのだ。こういった「本質的であるほうが尊い」というのは人間の一つの価値観というか、美の対象なのだと思う。

オッカムの剃刀によってジョリジョリと驚きの6枚刃でツルツルに削ぎ落とされたものが優るという指針も「え、なんでツルツルのほうが優れているの?」という指摘をされれば、詰まるところ依拠できる対象は無く。これは人間の嗜好の問題と私は考える。一方で、無駄の美学もあるから面白い。

必勝パターン・セオリーの精度

で、身近な話にいくと、誰もしも自分の中での勝ちパターン・成功パターン、いきなり放り込まれた環境の中で、まずデフォルトでどんな挙動するかの動き方を持っていると思うのだが、結局そのパターンも「それ、どこまで適応できるんでしたっけ?」という点で優劣がつけられる。これは「そのパターンをどれだけ広い範囲で適応してきましたか?」という経験による仮説検証を経ることが必要で。

例えば一つの考え方として、営業において成功できるけど、エンジニアにおいては成功できない法則Aと、営業でもエンジニアでも成功できる法則Bでは、Bの方が法則として優れている。その際の法則Bは必然的にAよりも抽象度が高くなる。そして、おそらく、より多くの適応範囲で成功してきた法則・パターン・セオリーは、次の未知の領域においても成功する確率が高い。この未知の領域でどの程度戦えるのかの差は、これまで法則を適応し”正”であり続けてきた範囲の広さに応じて累乗的に開いていく。

だから、色んな範囲を経験している人、ここでいう範囲とは仕事の職種に限らず、趣味、生活面の色々、環境、生い立ち、人が経験する全てにおいて、色んなことを経験し、それを乗り越えてきた人は、より優れた法則をその中に持っている可能性が高い、そう思っている。そしてそんな人は新天地にいっても上手くいく可能性が高い。

今自分が持っている成功法則を色んな場面で適応していく、その中で法則を仮説検証・修正していく。おそらくその修正によって現在持っている法則はより抽象化されるが、一方でその抽象を場面に応じて具体化させる、その往復も合わせて出来るようになる。

世のイケイケの人が教えてくれるありがたい成功法則は、往々にして「当たり前かよ!!」「この一般論が!!」みたいなことがあるのであるが、でもスーパーマンたちが超えてきた修羅場は数知れずであり、そのように適応範囲を広げた中での成功法則において抽象化が起きているのは当然で。逆にそれを「一般論」と切り捨てる当の本人は、その一般論を個別場面において最適に具体化し、その一般論によって修羅場を乗り越えられなければ、まだまだ切り捨てる資格は無いのだろう。

思考停止ゾーンがどこに置かれているか

相対性を用いることによって言語による論理は無限をもたらす。物理的な成約を持たない論理は、例えば「〇〇の反対」のように、ある「〇〇」に対して、何かを延々にaddすることができるので限りがない。

単純な例で言えば「〇〇の反対の反対の反対・・・」は無限大に続くことになる。この調子で考えると論理には際限が無い。なので思考を深めようと思えば、どこまでも行くことができる。ロジカルシンキングに触れたことがある人ならば、誰もが一度は考えたことがあるだろう。

「Whyの深堀りを一生続けたらどこにたどり着くのだろうか?」

相対性によって「〇〇に対するwhy」は永遠に存在することにある。

「では我々の足場(それ以上掘ることが出来ない地盤)はどこにあるのか?」

それを我々は知らない。人間は重力の方向を知っているが重力の中心が何であるかを知らない。それが何であるのか。それが過去の哲学のテーマであるいわゆる「真理」や「意志」であったのだろうし、「〇〇の先にあるもの」と相対的な定義を用いたり、空想上の概念によって仮置きしていて、実際の所「それが何であるか」は解き明かせない。そんな始まりを知らない論理に頼って、宙に浮きながら我々は生きていると考えると面白い。

なので、私たちが自分で前提を置かないと論理はスタートしない。

人類共通のスタート地点の設定は不可能なので、個別文脈で論理を用いる人が、自己の責任によって前提を設定する。私はそれを「思考停止ゾーン」と勝手に呼ばせてもらっている。(ニュアンスが揶揄っぽいのだが、全くその意図はなく、しっくり来る言葉が他にないのである)

思考停止ゾーンは、「なんでそうなのですか?」と問えば「私がそう設定したから」としか返すことが出来ない。意志によって高らかに、もしくは無意識のうちに宣言された所与の変数だ。人間の内面性で言えば、これは「価値観」という言葉で置き換えられる。

価値観に対して「なぜ良いのか?」と問うても「それを良いと思うから」ということ以外は返ってこない。(逆に何かがそれ以外のものが返ってくるようであれば、それは価値観とは呼べない)しかし、実際にこれに返答が出来ないのは、答えが存在出来ないからではなく、言語化できる領域に答えが無いからなのではないか、と思う。

「語り得ぬこと」「存在しないこと」は明確に異なる訳で、写真に写っていないからといって、カメラマンが存在しないということは無く、写真が存在するということはカメラマンの存在が「示される」ことになるのと同様で。

思考は言語のみならず

思考は言葉で規定されたりなんかしない!

- クラヴィス・ シェパード

たしかに我々は「語りえないことについては、沈黙するしかない」のかもしれないが、例えば、非言語領域と言語領域を繋ぐコンパイラー・デコンパイラーを創ることで沈黙したまま、語り得ないことに干渉することが出来るのではないだろうか。

言語の抽象化を継続していくと、どこかで言語を離れるが、そこに含まれる意味を受け取ることは出来る。言語というのはあくまでインターフェースに過ぎず意味内容自体は存在している。(=シニフィエだろうか)言語が無いからといって我々は意味内容を全く受け取ることは出来ない?そんなはずはない。例えば、絵を見て我々はそこに何かを感じ取る。意味や感情を受け取ることが出来る。

言語と比較すれば、おそらく得る意味内容についてのブレは人ごとに大きくなるかも知れないが、その中においても、おそらく共通の印象や意味を受け取るであろう。歌詞がないはずの音楽が我々に何かを残すのはなぜか?連続した音以上の明確な意味を人間は感じ取っているはずだ。

人間の思考のメインの媒体は言語になるがそれが全てではない。言語以外の媒体によっても我々は”考えている”。言語よりも抽象的なパターンの認識。既視感のような感覚。「あれこの人めっちゃ〇〇に似てる」みたいな感覚。これらは言語を超えた意味内容による思考がベースにあるように思っている。

なんでコリン・ウィルソンがオカルトするのか

『アウトサイダー』で一躍有名になったコリン・ウィルソンは、その後オカルト研究なども熱心に行っていた。まだ著作『オカルト』はこれから読むところであるが、私が思うに彼は真性の思想・哲学肌であり、多様な研究・興味領域を持ちつつも、事象・人間の原理・原則を理を持って読み解くところにコアがある。

そんな中で、こういった人がなんでオカルトにハマるんやろうな、という違和感みたいなのがあった。ここまでの「理」の人間が、なぜ一見理とは正反対に思われるオカルトを研究するのか。

しかし、これまで述べてきたことなどを踏まえるとなんだかしっくり来ている。人間である以上、言語による制約から逃れることが出来ない。しかし、確かに言語化できないことの存在は語ることが出来ないが示すことは出来る。一見眉唾的な対象であるオカルトなどにこういった人間が関わってくることになるのは、そういった語り得ぬ領域を説明していくための努力なのではないだろうか。

おそらく、この努力の正しさは証明することは出来ないし、周囲に受け入れられることもない。この証明には、人間の扱う非言語 ⇔ 言語を繋ぐコンパイラー・デコンパイラーの発明を待つ必要がある。(しかし、コンパイラーの発明には機械語を理解できる人間(=つまり人間コンパイラー)が必要であるというの構造は今回のケースにも当てはまり、機械語はまだ一応文字になるから良いものの、非言語を正しく言語に置き換えていくのは、相当に骨の折れるというかほとんど不可能な作業だろう)

言語によらない経験に基づいて、意味内容をパターン化していくという行為は可能であり、その精度を高めて再現性を持った形に落とし込んでいくことは可能なのではないだろうか。そんなことができるようになったら、三脳生物はもっと面白い!

出来の良すぎるSF小説としか読めないオカルト

『ベルゼバブの孫への話』を読めば、なんかもう出来の良すぎるSF小説にしか見えないのである。どんだけ練り込まれた世界観設定なんや・・・みたいな感嘆しかない。有名なSFは多少読んできたけど、ここまで一貫して(るのかも判断つかないくらい難解なのであるが)、独自の宇宙観・世界観・人間観で人間世界を説明する。真面目に論として語っても「はいいい?」ってなってしまうから、御伽話というインターフェースを利用したのかは分からないが、まあそのお陰で「あんた本気でいっとんのか」という疑問が私にまとわり続け、段々と何を聞かされているのかが分からなくなってくる。

これは嘘か真か?フィクションかノンフィクションか?いや、どちらでもないし、きっと「そんなことどうだっていい」なのだ。このように世界を捉えることができる人がいる、ということに驚きだよ。でも裏付けとしてどんな経験をしたら、こんな風に世界が見えるようになるんだろうか、という興味しかない。

著述家・舞踏作家・作曲家という領域横断的でありながら、でも領域横断的であるからこそ、抽象化された人間のエッセンスを取り出すことが出来たのではないかなと。まあ、それでも創造された概念が多すぎるので、自身の経験・感覚の説明のためにたくさん思考したのでは。独自の変数設定が多すぎる。いやそこをそういう切り取り方するんや!みたいな。イメージ、縦横に溝の入ったmeijiの板チョコを大半の人は当然のごとく溝に沿って割るんだけど、この人は溝無視して頭の中で見えている迷彩柄とか星型とかに沿って割ってる、そんな感じ。

まとめ

まとめると「自分の中で非科学的な領域についてのリフレーミングがちょっぴりできました~」という話なのだが、ただ、言語を使えないからと言って「何でもありになる」というのはおかしくて。だからいわゆる、ザ・オカルトとかそういう類は違うんだわい、それは映画とアニメと漫画の中で十分やでって感じで、人間の語れぬ所を解くような、検証は出来ないけど面白い仮説とかに対しての興味が非常に高まっているということであり。経験的な納得が得られない限りはそう簡単には受容しませんよ。

ところで『デュラララ!!』が面白すぎると思いませんか。池袋行きたくなる物語ランキングNo.1。いつも時代に周回遅れしている私、残念です。

1件のコメント

コメントは停止中です。