私の思想と私の行動は一致しなければならないか

2020年に入ってから、自分の人生についての考え方が大きく変化してきたが、ここ半年くらいの間は、前向きで希望的な要素が少ない考え方でスタックしており、感情的にもあまり晴れにくいような時間が続いていた。(もちろんここには外出自粛などによるライフスタイルの変化も重なっていたように思う)

しかし、つい先日に頂いた寸言によって、自身の状態に対する自己の認識が変わった。私は不可抗力的に鬱屈しているのではなかった。私は「趣味」で鬱屈しているのだ。

だから「スタックから抜け出す」という表現は適切ではない。なぜなら誰も私もスタックさせようとしていないし、構造的にスタックせざるを得ないような状況にもなっていない。私はいつでも自らの意志でその拘束を解くことが出来る。他でも無い「私自身の意志」が私を捉えている。要するに好きでやっている訳だ。

今回の認識転換で毎日気分は快晴になる訳ではない(なぜなら私はきっと曇天を好んでいる訳なのだから!)が、枠組みを理解をしたことによって、私は私が思っていた以上のことをコントロールが出来ることを認識した。それによって今後は私がこれまで問題視していたことを意識的に取り扱うことが出来る。もし同じ行動を続けていても、それは「仕方なく」ではなく「好きなので」となる。

今回のことをきっかけに、ここ最近得た知識や情報がまだ精緻ではないが整理がなされてきた。今回はその内容を書いていくことにする。

人が常に立ち返って来る問い

知れば知るほどに、考えれば考えるほどに、人間が逃れられない問いがあるように思われる。その問に自覚的であろうが、無自覚的であろうが、人の一生はこの問に対する1つの回答にならざるを得ない。この世に生を受けた時点で我々は強制的に回答者とされる。

「私は人生をどのように生きるか?」

人間はこの問をその身体に背負わされている。

今の自分が何歳であろうと、生きている以上は待ち受ける死が絶対的に存在するのであり、前後関係的な2点が存在するからには、我々は「時間」という枠組みに内包される。自分の全ての行為は、この問に対する回答とならざるを得ない。たとえ、自ら命を断つという行為であっても、1つの回答となってしまう。

自分自身は、この問に対して割と自覚的な方で、子供の頃から「死ぬの怖い」と思ってきた人間であるから、その裏返し的に「死なないようにどう生きるか?」「死んでも良いと思えるにはどのように生きるば良いか?」という変形型の問いを考えてきたように思う。(いや死なないのは不可能なのだけどね)

さて、この問を考える上で、問に含まれる「どのように」が特に広がりの有るポイントな訳であるが、私はここにサブイシューを切り出したいと思う。

“思想”と”生き方”を一致させて生きるか?

人間が自分自身の行動の動機・根拠として、思想や哲学を用いる場合が有る。本当に動物的に生きていない限りは、何かしら思考した内容を根拠に行動するということは誰にもあることであるだろう。

ここで1つの問を考えたい。

「“思想”と”生き方”を一致させて生きるか?」

それを思想や哲学とまで大仰な言い方が出来るかであるが、一旦程度問題として扱うことにして「自分が考えること」「自分が行動すること」の関係性ということに単純化したい。

私はこの「自分が考えること」と「自分が行動すること」との関係性に「一致」を求めている。考えたように行動する、主張したように行動する、そう生きることが正しい。自己矛盾は悪いことである。タレブ的に言えば「身銭を切れ」ということだ。

私がここ半年くらい鬱屈していたのは、①「自分が考えること」と「自分が行動すること」が一致できないこと、②一致させようとしても、一致した形で生きること・行動することに積極的な意味を見出だせないことにあった。

特に思想サイドが、無意味論的な要素が強かったので、その思想を行動に落とすことにも意味も無い。というか無意味論は直接的な行動の動機とならず、何事も億劫になるという状態だった。

このとき、私はこの状況の中で隠れた前提に無自覚的で、それ自体を切り出して吟味を行うことが出来ていなかった

無意識の前提:「自分が考えること」と「自分が行動すること」は一致しなければならない

この一致の折り合いに疲れていた訳なのだが、このように隠れた前提を切り出して見ると分かる通り、別に一致しなければいけない必然性などない。

「身体に悪いから控えないと」と考えながら「今日くらいは良いよね」といって身体に悪い食事して良いわけだし、他者に厳しい人が自分にはとても甘いということがある訳である。これが好ましいかといったことは置くとして、一致しなければならない、ということはない。

オッカムの剃刀同様、これは「一致する方が良いとする」という「お作法」であり「美学」に過ぎない。お作法や美学に「べき」という言葉は使えない。必然性があるのではなく「ルールとしてそう決めた」という宣言にしか成り得ない。

そう、これはつまり「スポーツ」だ。そのスポーツがしたいなら、みんなで決めたルールに従いましょう、ということでしかない。でも別にそのスポーツに参加がする気がないなら、ルールなんて無視してやれば良い。「あなた言っていることとやっていることが矛盾しているよ」という指摘は、同じスポーツ参加者にのみ有効なイエローカードということだ。

私には、この「一致ルール」に従わない事もできる。ACT的に言えば「脱フュージョン」とも言えるかもしれない。この従う・従わないの自由を認識した上で、今後も一致をさせて苦しんでいるとしたら、それは単なる「マゾヒズム的な趣味」ということになる。

冒頭に言った「趣味で鬱屈している」というのはこういうことだ。鬱屈しないこともできる自由がある中で鬱屈していることは、好きでやっている「趣味」としか言いようがないだろう。

※この結論でいえば、以降も全て「趣味」になるということを予めお断りしておく。なのでぜひ楽しく読んでいただきたい。ええ、趣味なので。

では、誰が「一致させること」を選択しているのか?

しかし、ここで私には1つの疑問が湧き上がる。

[「自分が考えること」と「自分が行動すること」は一致する必要はない]という思想に基づいて、思考と行動を一致させないことは、結局思想と行動を一致させてしまっているのではないか?

「一致して無くてもええやん」と思って一致させないことで問題が簡単に解決するはずが、実はその行動そのものが一致に基づいた行動であったということになる。しかも、それで問題が解決したと思ってしまうあたりで、むしろより一致への執着を深層化させていた。

※繰り返すが別にそれで良いのだ。しかしそれでも私は考える。なぜならこれが私の「趣味」だからだ!

とすると、この新たに発生した一致を同じ方法で解消しようとしてもループになる。突き詰めて言えば、これらの問に対して思考的な回答による一致の解消は出来ない。なぜなら、思考と行動で作られたこの問いの空間を説明するために、空間内の概念を用いようとしているからである。この試みは循環構造に陥り、永遠に説明が完了しない。

となると、この問に対する回答は、問いの空間外から持ってくるしか無い。

これらを踏まえて問いを再設計すると

「”思想と行動の独立化”という行動を取る際に動機にできるものとは何か?」

という問いになる。

「人間の本源的な感情」に基づいて行動すれば良い

上記の問に対する私の回答は「人間の本源的な感情」である。

楽しい、嬉しい、悲しい、面白い、といった思考が介在しない感情を動機に、思考と行動を独立化させればループは生じずに構造が解消できる。思考と行動の独立が実現する。

私がもし「自分が考えること」と「自分が行動すること」を一致させられないことに苦しんでいて、それを本当にどうにかしたいとすれば、論理的な帰結としては「人間の本源的な感情」に基づいて行動することで解消される。あくまで論理的に構造が解消されるという意味において。(本当に苦しく無くなるかは知らない)

※解法が分かっているのだから、本当にどうにかしたいとすれば、とっくに解決している。だから、やはりこれは趣味だ。多分あれなんよ。私は深淵覗いて深淵に覗かれ返してもらいたいんだと思っている。そうすることで人らしく生きている感じがするのだと。

これを皮切りに独立を確保できたら、同様に本源的な感情をベースに色んな行動を行っていれば、思考と行動の独立性は維持し続けられる。

結論:「人間の本源的な感情」に基づいて行動して生きる、が良さそう

一旦そういう結論だとしてだね

もし本当に一致させずに生きてみるとして「人間の本源的な感情」に従って生きてみるとしよう。

本源的な感情は、その特徴としてナマモノだ。持続性が弱く、保存が利かない。ある瞬間が楽しくても、次の瞬間にはその感情は失われる。また感情は現在のみでしか実感が不可能である。過去で感じることも、未来で感じることも出来ない。できるのは、過去を思い出した現在を感じること、未来を想像した現在を感じること、である。

一方で論理は保存が利く。過去の人間が書いた書物を読んで、自分たちはそれを体内で取り込んで、その論理を都度同じ形で何度も呼び出せる。同様に自分の論理は保存して未来の人間に伝達可能だ。論理に込めた意味から何度も動機を構築して行動をすることが出来る。

そのような性質の本源的な感情ベースに行動を考えると、非常に局所最適的な、刹那的な生き方になるように思われる。一方で、局所最適的な行動の結果は、自身の価値観とバッティングすること、もしくは自身が害を引き受ける可能性があることを理由に望まない場合がある。

そうすると、ナマモノである人間の本源的な感情をベースにしながら、ある程度の時間的な長さを前提に生き方を構築する必要が出てくる。

本源的な感情に基づいて、行うことは3つある。

  1. 方向性を規定する
  2. 目標を設定する
  3. 現在を行動する

1. 方向性を規定する

本源的な感情に基づき、感覚として望む・望まないという方向性や領域を定める。正確には、これは自分がコントロールして変更するものではないので「認知する」という方が恐らくは正しい。わかりやすく言えば「自分の声を聞く」といって良いかもしれない。

2. 目標を設定する

1の方向性に収まる範囲内で、未来に目標を設定する。この目標は思考的に設定してはならず、本源的な感情に基づいて設定しなくてはならない。楽しそうだから、ワクワクするから、面白そうだから、といった理由で設定する。(具体的な達成をマネージするためのKPI的な粒度の目標はこの限りではない)

3. 現在を行動する

1,2を持って、現在を本源的な感情に基づいて行動する。3で行う行動も、楽しそう、面白そう、という理由で行われなければならない。2と3では、3の方が立場が強くなる。先述の通り、本源的な感情はナマモノであり、現在的なため、未来に置かれる目標よりも、現在の行動の方に引き寄せられる。

現在ではない未来のためにどう頑張れるのか?

これは大枠の話であって当然に疑問が湧く。

「現在評価的な行動の積み重ねが目標の達成につながるのか?」

短期的に楽しいがままに好き勝手やってて目標達成できるんかい、ということだ。ずっと夢を描きながらも、結局いつまでも短期的に好きなことやって、夢に近づかない奴になるのではないか、ということだ。

結論は「つながらない」である。

目標達成を目指すことが決まると、自分の本源的な感情とは無関係に、達成するために必要な行動が決まる。だから、この行動を取らない限りは目標が達成されることはない。要するに、目標達成したかったら、やりたくないこともやらないといけない、ということだ。

では、どのような理由から、やりたくもないことをできるのだろうか?

目標に対する本源的な感情が充分に大きければ話は単純だ。その目標の達成のために、現在を犠牲にして将来に向けた”投資的性質の行動”を取る。(=その人の中では、未来>現在、という判断で行動がなされる)

人によって未来と現在の評価の比重は人ごとによって異なる。特定の目標に対する物凄い執着がある人もいれば、別に執着が無い人もいる。後者の人にとっては、相対的に現在の方が”重くなる”。

では、現在評価の比重が重い人間が、未来のために行動するとすれば、それはどのような形があり得るか?もし、現在評価の比重が重い人間が、未来のために行動することを求められている場合に、どのように戦うことが出来るか?

  1. 強い意志によるコミットメント
  2. “環境の子”としての行動原因の設計

1. 強い意志によるコミットメント

人間は「右手を上げたい」と思いながら、右手を下げることが出来る。人間の行動は、論理や感情によって支配されているように見えて、より深い部分によって支配されている。あくまで自分は、自分が語れる・扱える境界線の内側の話が出来るに過ぎない。その境界の外側についてはただ受け入れることしか出来ない。

意志は理由を必要せず、行動の原因となることが出来る。我々が感じ取ることができるのは、意志の残り香である「決めた」という感覚だけだ。その感覚でストッパーをかけて不可逆な状態を作る。この意志によって未来のための行動を行う。言葉遊び的でもあるのであるのかもしれないが、しかし理由や感情に全くもって反した行動が人間に出来てしまう以上、意志を”原因”とする行動は成立する。

2. “環境の子”としての行動原因の設計

もう1つは、人間をインプットによって駆動する関数として捉え、自分が処理を続けるためのインプットを環境に置くこと。モチベーションの奴隷にならないように「やらなければいけない状態を作る」という、自分を乗せるベルトコンベア装置を自分の人生に作るのだ。

認識論はおいておいて、私の意志や動機と無関係に、環境の結果として私は行動する。巨視的な視点では生物はそうな訳であるのだから、それを微視的にも作り上げる。こうして、やりたくないことも出来るようになる。

では、その環境を設計する原因は何になるのか?「やりたくないことをやらせる環境を設計することは当然やりたくない」はずであるからだ。この、やりたくないループを抜けるには、当然1の意志によるコミットメントによって初動するしかない。

なぜそこまでして生きようとするのか?

ここで、素朴な疑問に立ち返る。

「なぜ私は無意味さを超えてまで生きようとするのか?」

はい、生きること無意味、終了!でも別に良い訳で。ここまでの話も、どことなく「生きることありき」で話が進んでいるとは思えないだろうか。

この動機は、本源的な感情よりも根幹な「生きる意志」に基づいていると考えている。この意志は、機能として人間に物理的に埋め込まれている(イメージとしては遺伝子レベルくらいの話)と考えている。

この機能が働く限りは「生の慣性」が発生する。今この瞬間を生きていれば、次の瞬間も生きている、ということの連続性を「他からの力の作用を受けない限り現在の運動状態が変化しない」という意味での慣性になぞらえて、私が勝手にそう呼んでいる。

通常はこの慣性によって「生きる – 生きない」というレベルでの問いは無意識的には忘却されている。生存を前提とした”生”物が、死ぬことを思い悩む必要はないので、問うとすれば意識的に行うしかない。

生きる意志の存在によって、問いが生きることありき(Ex. どう生きるか?)になってしまうが、当然理性によって、

「私は生きるべきか死ぬべきか?」
「私は生まれない方が良かったか?」

のように、これらを問うことは出来る。冒頭で示された

「私は人生をどのように生きるか?」

という問いは「生」と「生」の比較であり、複数の生き方に順列がつくような問となっている。

一方で、「私は生きるべきか、死ぬべきか?」は「生」と「死」の比較的な問いである。だが、生きていないものは死なないため、生と死は切り離せない同一的な概念という意味で、トートロジーが生じているようにも思える。

基本的にこの問が発せられる際のニュアンスは、「私は生きるべきか、(今すぐ)死ぬべきか?」ということであろう。

とするならば、今すぐ死ぬという行為も生き方に含まれることになるので、「私は人生をどのように生きるか?」という問いの方が、より大きな集合であることが分かる。

「私は生まれない方が良かったか?」

については、「無(生まれていない)」と「有(生まれている)」の比較になる。無の評価は「何も無い」ということ以外に材料がないため、全くもってApple To Appleになり得ない。この問は、無 対 有という構造ではなく、単純にその「有」自体でプラスかマイナスか、という評価を成さねばいけないだろう。

有がマイナスであれば、無の方が良く、有がプラスであれば、有の方が良い。であるので、人生をどのように評価するか、を論点とした問であり、「私は人生をどのように生きるか?」に内包された、”どのように”を思考する上での、サブイシュー的な問になるように思われる。

何を言いたいかはかなり散ってしまったが、死ぬということを含めても、やはり立ち返るべきは「私は人生をどのように生きるか?」という問に集約されることを自分の中で確認したつもりである。

「人間の本源的な感情」に基づくとしても

本源的な感情も純度が低いものは信用できないなと思っている。純度とは、人間の生物的な感覚にどの程度強くアラインしているかだ。感情的な動機であっても、発生にはプロセスを経る。

  1. 対象を認識する
  2. 認識内容を判断する
  3. 感情を発生させる

3で発生した感情を根拠に行動をするとしても、1, 2 のあり方によってコントロールされることになる。例えば、見ていないものを面白そうと感じることは出来ないし(1)、受け取った内容を楽しいと思うかどうかは、自分の判断枠組みに影響を受ける(2)。感情と行為は強く結びつくから、主従関係が転倒することも有る。楽しいから笑うではなく、笑うから楽しくなる、ということがあり得る。

人間の本源的な感情も、自分自身が生きている構造によって影響を受けていることは否めない。年齢や時代によって面白い・楽しいと思われる対象も変化する。現実世界を生きる人間を「物自体」として想定することは出来ず、常にある文脈の存在を認めなければいけない。

自分自身の本源的な感情が発生する前提にある認識と判断の背景にある構造を、カントのような人間一般的にではなく、私自身として個別的に紐解き、意図的に構造内に設定されたダイアルを回すことで、自身の感情発生がコントロール可能になるかもしれない。そうなれば、それは自分の行動をコントロールすることと同じになるだろう。

そんな趣味を終えて

ということで、なんでいつもこんな誰が読んでいるとも分からない中でブログ書くんやろなといつも思うわけなのだけど、もちろん面白いからというのは当然として、ふと「空(くう)は埋めろ」というに定言命法に生きているかもしれないと。

「あ い ◯ え お 」って見たら、心の中で絶対「う!」っていうじゃないですか。その「う」に動機なんて無いでしょう。強いていえば、そこに空(くう)があるから。

もちろんに、他者に自分がどんな事考えているか知ってもらいたいとか、ルサンチマンに駆動されて自分に都合が良いように世界の価値転倒を図っているとか、色々に綺麗ではない動機はあるのだけれど、何よりも頭に浮かんでくる断片と断片の間にある空白を埋めたいがために手が動いている。体系にしたい、まとまりを作りたい、1つにしたい。1つの円が先にかたどられて、その中に欠けている空間を埋めたい、そんな知的好奇心に動かされているのだなと。

まあ、今回の引き出せた最終的な結論は「楽しく生きようぜ!」という右脳極まれりなアウトプットだというのは、我ながら燃費が悪いなと思うところ。

でも、自分という文脈をうまく使いこなすという点では、少しずつでありますが前進していると思うので、そこはポジティブなんです。