逃れられぬ論点 | 助けて!コリン・ウィルソン

『アウトサイダー』でお馴染みのコリン・ウィルソン。前に考えた時に、なぜ哲学者や理性的に物事を考える彼が、オカルトといった科学的ではないものに興味を持つのかに関心があった。

今日も私は論理と戯れ、哲学者はオカルトする

そこで彼のオカルト系作品の代表作『オカルト』を読んで気になった言葉をツッコミ、考えたことと共にメモっていくとする。本作の内容はオカルト事例の羅列だが、彼自身の主張は非常にシンプル。「人間の未来は意識の拡張にある」ということ。

色んな思想家が人生をかけて考えた結果としてたどり着くエリアは非常に共通しているような感覚で、まあ、自分が今のうちにそこに気がつくことができたのは幸運のようで、まあ逆にむしろ不幸かもしれない。救いはあまりないのでね。

気になった一節・言葉と私の解釈

天国にたったの五分間でもいるためなら、一兆マイルの十倍の距離を歩いても歩き甲斐があったろうと公言する。ドストエフスキーはこの神秘的な意味感覚を捉えているのだが、その意味はきわめて強烈であるがために私たちに思いつけるいかなるものをも凌駕し、いかに辛い努力でもやり甲斐のあるものにしてしまう。人間をして進化に必要な努力を行わせるきっかけはこの意味感なのである。人は、自分の倦怠とペシミズムが宇宙の真理であると信じているあいだは、努力することを拒む。もしも人が、イワンの語る罪人のように突如として「意味」を瞥見することができたならば、人は征服されざるもの、殺すことのできないものとなり、十兆マイルを歩くことなど朝飯前となるだろう。

ざーっくり、意味のために人は生きている、ということ。十兆マイルの努力が報われるほどに強烈な意味感覚は人間に美味であるし、重要なのであると。

会社で一日を過ごすのに私たちが使う種類の知識は、論理的で意識的な知識であるが。が、同時に私たちはもっと直観的な次元においても生きており、この直観的な知識は、魚が水温や水圧の変化を感じるのに使う体側神経になぞらえることができる。疲れていて気がふさいでいると、こうした直観は働くのをやめ、私は事故に遭いやすくなる。

あれやね。人間は足(直観)があるのにわざわざ自ら骨折をして松葉杖(論理)で歩こうとしている。いやいや、普通に足使えよと。

主な問題は、意識的世界と無意識的世界とのあいだにつながりをつけることなのであるが、「タロット」カードを考案した人はまさにそれを行おうとしたのである。「タロット」カードのシンボルは二重の目的を果たしている。一つは、潜在意識がみずからの言わんとする意味を綴るのに使う一種のアルファベットとしてそれは作用するということであり、二つは、穴をあけられたカードがコンピューターを「刺戟する」のにも似て、それ自体に内在する活力によって潜在意識を刺戟するのである。つまりは、往復通行が意図されているのだ。

この前に詩について考えたことと同じ。直観的に人間の内に意味を想起させる媒体。タロットカードってそういう役割だったんやって思うと面白い。そんな目線で考えたことなんてなかった。

意志や目的を容れる余地のない科学もしくは知識体系は人間の進化にとって障害物であり、歴史の現時点においては、危険な邪魔者なのだ。

直観がある世界で生きている中で、科学に対する過度な傾倒・盲信は、自分で自分の首を締めているってことだよね。でも、それを実は知りながら、受け入れられない人間。いやツンかよ!

ピタゴラスにとっては一つの啓示として強い印象を与えたのである。彼の心は飛躍して、ひょっとしたら創造の全ての調和は、この四つの音の場合と同じよう数の秘密によるものではないかという驚くべき考えにたどりついた。創造は「神的な純粋な統一」すなわち一という数に始まり、ついで「聖なる四」へと発展するものであり、一から四までの数を合計すると十になり、この十という神聖な数から他のすべてのものが発現するのだ、と。

こういった直観性による仮説を証明されたものが科学になってきたというのはあると思う。しかし、いつしか科学そのものが自己目的化してしまっているのでは。

すでに見たとおり、日常の生活は人間を現在という小箱の中に閉じこめ、黒い頭巾が鷹の荒々しさを殺してしまうのと同じように効果的に人間の長期に及ぶ目的を破壊し去るからだ。退屈で挑戦のない現在の中に限定されていると、人間は植物と化す。人間が最上の成果を発揮するためには、電気ショックのように受動的な状態の中から目覚めさせてくれる目的によって駆り立てられなければならないのだ。

アレクサンドロス大王やナポレオンのようなごく少数の者だけが、大事件の手招きによって自分たちの倦怠から救われる幸運な人たちなのであり、それ以外の私たちは、「日常性のくだらなさ」を超越したいと念じたならば、私たち自身の目的を創り出さなければならず、その目的が見つかるまで、あたりを捜し回ることをやめてはならないのだ。が、大部分の人は決して目的を見出さない。

(中略)私たちは、キリスト教には、他のすべての欠点を補って余りある一つの美点があることを認識しなければならない。キリスト教は人類という大集団をある一つの目的をもった生き物に変えたのだ。

残酷すぎる結論。特に「”勝者”の理論」に駆動された人間にとっては、自己を正当化できる耳障りの良い結論出し、「”敗者”の理論」に駆動されている人間には耳を塞ぎたくなるようなお言葉である。

“敗者”の理論に救いを求めて、突き詰めた先に待っていたものは、「敗者の理論も結局行き詰まっちゃったので、”勝者”の理論の方に行ってみます?ま、でも大半の人はそのままで終わるんだけどねw」というお言葉。あなたドSか、コリン・ウィルソン。

また、この視点で関係する一節。

忙しくて精力的な人は超自然的なものに割く時間の余裕がなく、超自然的なものを気質的に否定していることから、自分の実際的でくっきりとした問題の世界だけが唯一の本物の世界だと感じていることから、自分の実際的でくっきりとした問題の世界だけが唯一の本物の世界だと感じている。(中略)科学には、何か冷たく、硬質で、気分を高揚させるところがある。(中略)それと比べると、「オカルト」の世界は霧に包まれていて、しめっており、人間にみずからの無知を思い知らせ、人間が自分の生存にたいして受動的な態度を取ることを勧めるのである。

科学と”勝者”は相性がよく、また支配的になっていくよね、という。

ひえーーーーー。

そして、ロマン主義の根本的なパラドックスに注目したのはフィヒテであった。

「自由であるのは何でもない。自由になることが天国的なのである」

特定の状態の持続性ではなく、切り替わる・変化の瞬間に人間が欲しがっているものがあるということ。ショーペンハウアーは「人生は苦痛と退屈の繰り返し」と言う。無ければ渇望し苦しむが、一度満たされれば今度は退屈するという残酷な特性。

だから幸福を「持続した状態」として捉えようとすることはナンセンスで、本来「幸福である」という“線的”な捉え方はおかしく「幸福になったことはある」という“点的”な捉え方がより正確なのである。

で、それに対して釈迦は「まあ人間そういうもんなんで、あんまそういった変化に執着するなよ~」と言い、一歩メタにフォーカスアウト。

人生の真の問題は、人生の惨めさではなく無意味さなのである。この主人公は、曇った天気は自分を悲しい気持ちにさせるが、いざ太陽が現れても、それは「無用」のものと思われるだけだと語る。彼は疲れているのであり、欲望を欠いている。幸福でも無ければ不幸でもない。不幸でさえもこの退屈さから息抜きになってくれるであろうに。

やめてえええええええ!

ふう、一度グルジェフ先生に助けを求めましょう。

グルジェフは彼に鋤を手渡し、庭を掘れと命じた。オレージはそういう仕事に慣れていなかったので、掘る作業が非常に骨身にこたえ、しばしば自室に入って、疲れと自己憐憫からくる涙をこらえようとした。彼は自分がとんでもない間違いを犯したように思った。が、今までよりもなお頑張ってみるようにしたところ、球に、自分が掘る作業を強烈に楽しむようになったことに気づいた。

いやあああああ!!気づかないでええええええ!!ワークしないでえええ!!
もうやめて!とっくに私のライフはゼロよ!

グルジェフのシリーズ2作目『注目すべき人々との出会い』にも、グルジェフの思想を示すこんな一節がある。グルジェフの友、ボゴジャンは以下のように話した。

『ぼく』と言っても、それはぼく全体ではなく、ぼくの心を指しているにすぎないということだ。ぼくは仕事が好きなので、たゆまざる努力によって、理性だけではなく、ぼくという人間全体が心底からそれを好む習慣をつけることを課題にしたんだよ。

それにぼくは、この世で自覚をもってする仕事が無駄になることはないと信じている。遅かれ早かれ、それは報いられる。つまり、仕事をすることで僕は二つの目的を遂げることになる。第一に、自分という人間に怠けないことを教えられるだろう。第二に、老後の蓄えをすることができる。

(中略)

ぼくが仕事をするもう一つの理由は、人生でただ一つの真の満足は、強制によってではなく、自覚によって働くことにあるからだ。同じように日夜働き続けても、人間がカラバックのロバと違うのはそこなんだよ。

追い打ちをかけてくる。。。

私の持論であるが、人間がこの倦怠感と戦いながら生き続ける方法は2つあると思っていて。

1つは「徹底的な仕組み化によって、環境に組み込まれた”装置”としての人間」になること。つまりは、自覚も何も必要なく、環境と習慣の奴隷ということを大いに利用し、思考が介在する余地なく、正しい行動を行えるようにすること。”仕組み化”という「ベルトコンベアー」を環境に作り出し、あとはそこに乗れば目的地にたどり着けるようにする。意志など無くなって最高のパフォーマンスを行えるような「装置」になってしまいましょう、ということ。

もう1つは、まさに先述のグルジェフの内容で「自覚を持った人間」になること。強い自らの意志を持ち、自覚を持ち、行動し、倦怠感と戦うということ。

この二極のアプローチしかない。前者は「人間ってなんでしたっけねwそれって人間なんですか?w」というツッコミは不可避であり、後者は「それが疲れるから私は困ってるんですw」と言いたくなる。

こんな謎のフレームワークの中で、“Stuck in the middle”しているのは社会を見渡しても私だけだと思う。ごめん、マイケル・ポーター!!!

人には時折強烈さの瞬間が ー 自分が何になりうるかを垣間見るひらめきと、自分が潜在的に達成しうる自由の瞬間が ー 訪れる。しかし、時を移さずに人の心は再び眠りに戻り、お定まりの、習慣に満ちた生存を再び送り、心は、付するに値する以上の意義を些細な事柄に付して、些細な事側に全く占拠されてしまう。

いや、とんだ構造的欠陥を内に入れ込まれたもんだ人間は。生存のための機能によって苦しんで人間が自死を選択してたら本末転倒ですわい。

でも最近『よふかしのうた』で「確かに!」っていうセリフで、正確な中身は忘れたけど「人間の三大欲求は個ではなく種の存続のための機能である」的なのがあり。特に「性欲」は別に個レベルではなくても死にはしないけど、人類全員がそうだったら「人間」という種は絶滅する。

つまり「人間というプロダクト」に機能実装されるか否かという意思決定の軸は「種としての存続にポジティブであるか?」という”マクロ”の視点によって行われていて、個が生き死にするかという、ミクロレベルは割と無視されている。

まあ、なので知性についても、こういった構造的欠陥に気づいちゃった個体は「ドンマイ~」っていうことで、でもこの知性がこれからも人類を活かし続けるのであれば、この機能は存続されるということになる。アウトサイダーさんは人類から見捨てられた存在のようだ。

時として、音楽や詩が私の心を実在に目覚めさせ、内的な地平の拡大を、拡張された現実感を引き起こすというこの効果をもたらすことがある。が、それも常には作用しないのである。

ピアノの安らぎも一時的な気休めにしかならないということになる。まあ、こんなこと言われたくらいでやめたりしませんがね。

もし私たちが平穏で単調な昼と平和な夜を生きるのであれば、誰でも駄目になってしまう。平穏の空虚さに苦しむよりは自分の精神を苛むほうがましなのです。

というのが本来突き詰めた時に人間に起きる状態である場合、処方箋はやはり

  1. 世界は単調ではないと思いこむ
  2. 本当に単調ではない世界を作る

ということになるんだろうなと。

3. 自分はドンマイな個体として我慢する、というのもありですが。まあ、3を取るなら頑張って1を取りますかね。諦めるよりは戦う方が生産的かなあとは思えるし、他者に影響の無い自己完結型なので。

2は危険ですね。例えば、戦争に言った兵士たちが「普段の生活よりも、戦争の時にこそ生きている感じがした」という話を聞いたこともあるが「生きるために殺す」というのはマクロレベルでは本末転倒。

しかし、結局マクロってミクロの集合体でしかなくて、意思決定するのも苦しむのもミクロの視点でしかあり得ない訳で。つまりマクロの中での内訳としては「自分は貧乏くじを引きたくない」とミクロたちが押し付けあっているということなのである。総和としては変わらないけど「誰が引くか?」を論点に争われている状態。

利己的な視座ではそうなるけれども、でも別に視座を上げた人の元に救いがあるわけでもなく。「結局生き残るのは構造的にも視座の低い利己的な人間」であるとすれば、ああ、何だか切なくなりますね。

そうすると、やはり1を頑張るしかないのか?

「私たちの現在は素敵なストーリーの1つ1つのチャプターなんだよ!」

「どんなに大変な今も乗り越えればハッピーエンドが待ってるぜ!」

ちくしょう、やっぱり「中二病」するしか無いのか。。。

「生きるか物語るか」の二択を迫られ続け、アウトサイダーたちは「生きる」を選択するが最後には袋小路と悟り自爆する。かといってアウトサイダーはその性質から「物語る」ことを選択することは出来ない。

とすれば「アウトサイダーは初めから詰んでいる」訳だ。

人を襲う「物語の病」と『中二病でも恋がしたい』の叫び

爆ぜろリアル! 弾けろシナプス! バニッシュメント・ディス・ワールド!!

- 小鳥遊 六花

現実の檻、爆ぜてくれたらいいなあ・・・

あらゆる認識の中で最も重要なのは、人間の意識が志向的であるというフッサールの認識である。私が意識的な日常の生活を生きるとき、私は自分が「生きること」に傾注している意識的な仕事の量を自覚していない。人生の非常に多くは「ただ起こる」ように見え、非常に多くが「与えられて」いるように見えるので、私は私自身を、他からの作用を受ける受動的な物体であると考える習慣にはまりこむ。

(中略)

なぜ休日がしばしば普段よりも増大した「積極性」、オプティミズムや幸福や、人生は途方もなく興味深いという感じなどを生み出すのかを自問してみたまえ。それは、日常生活に変化がついたことによって、意識の行為や、見たり、したりする行為にいっそうの関心を注ぎ込むからである。

(中略)

私たちは、習慣が私たちを誘惑して体験を無価値化させてしまうのをゆるのである。私たちがそれを守るために戦ってきた価値を忘れ去るのはあまりに容易なことなのだ。

(中略)

私たちは人生に「接近して」生きねばならぬのであり、人生を蛆虫の観点から眺めることを余儀なくされ、もっと広範な鳥瞰的な視点を忘れてしまうのだ。

私たちは蛆虫君になることで、志向的であるはずの意識について無自覚になっている(=実存の忘却=自分が「存在している」ということを意識していない)が、本来は「意識を意識的に向ける」ことによって価値の実感が出来るはずなのだ。そういう意味では日常の変化とは意識を意識的に用いるためのトリガーとも考えられる。

この「実存の忘却」にたいしてどういう手を打ったらよいのか。グルジェフの『全体とすべて』の終わりで、ベルゼバブは、人間が本当に必要としているのは、それによって自分の死の正確な年月日をたえず意識することができる一つの「器官」であると孫に告げる。そういう器官があれば、人間はまるで自分が不死であるかのように生を浪費することをやめるであろう。この解決策はハイッデガーが『存在と時』の中で提起しているのとぴったり同じものである。すなわち、たえず死を意識して生き抜け、と。

解が「死を意識しろ」とチープ極まれり、なのがちょっとうむむな感じですが、まあ実際的な効果としては否定できないでしょう。

日本の武士の中には、毎晩寝る時に日本刀を天井にぶら下げて、万一寝ている間に紐が切れたら自分の上に刺さるようにしていた人もいるらしいですよ。そうやって日々死を意識し、その日を生き切ることを大切にしていたのだとか。

人生にまつわる最もひどいことは、人間が「日常性の瑣末さ」の中にはまりこんでいることであり、自分たちの狭い意識の限界を受け入れていることである。

科学技術の成果と医学の進歩は、様々な抑圧と悪からの自由をしだいに授けつつある。人間の最大の問題は依然として人間自身であり、他の人間たちとの位置関係である。自己をよく理解するためには、自分は老化して死ぬ運命にある一時的な肉体からのみ成っているのではないという事実を自覚しなければならない。

(中略)

肉体の死は、一つの意識状態から、人がまだ自己の個性を保っている別種の意識状態への移行にほかならないということである。この事実を認識すれば、人間が自分自身の性質と潜在的な超地上的な活動とにたいしてより大なる洞察を得るのに役立つであろう。あなたがたの世界における現在の受肉は人間の永遠の生のほんの一段階に過ぎないということを知れば、現在しばしば採用されている政策よりもっとも先を見越した政策が育まれ、あらゆる問題にたいするもっとバランスの取れた見方が奨励されるであろう。

いや、この哲学・思想・宗教・オカルト・スピリチュアルが丁度良いバランスで交わった一節で非常に面白い。これが事実であるかは別として、というか事実であるかどうかは言語 – 非言語のコンパイル/デコンパルが出来るようにならないと一生わからないのだけど。

ただ直観性や無意識的な世界の存在は経験的に十分に示されているのであり、それを説明出来ていない科学に頼り込み、それベースドな世界観を作ってしまうことはバランスが偏っている。そういったことに対する人自身の受け取り方もより柔軟になっていく必要があるでしょう。

まとめると「どうやって戦い抜いたのコリン?」

コリン・ウィルソンが、オカルトというトピックに傾倒した背景は非常によく分かりその点はクリア。一方で、彼自身も1人の「アウトサイダー」として、どのような思考・経験を経て、人生を戦い抜いたのか、という所が気になる。安直に解は提示しないスパルタな姿勢、好印象。

まあでも、そんなこんなで人類が数千年考えて変わってこなかった結論について、改めてリソースを割くことはもったいないし。過去の偉人がどの辺りにたどり着いたのか、ということのあたりを割と豊富なケースから得られているのはポジティブなことだなあと思う。

それら踏まえても、詰まるところの論点は、

①「私」という固有の文脈の上で、②その「私」は何をするか

ということは、これからもズレないはずである。

ちなみに

今回扱ったコリン・ウィルソン『オカルト』はこちら。
オカルティックな表紙で味があります。興味ある方は是非!