既に完成された幸福と不純物 | ぬるっとした幸福論

一年間で最も散歩に適した季節の到来。今日の最高気温は20℃であることを知り、上着を持たずに出かけてみようと、私の心は冒険気分になる。都内の海の見える公園で約束までの時間を潰していると、30代前半くらいのお父さんが、まだまだ背丈の小さい子供とサッカーをしている姿が目に入る。

ボールを上から足でおさえるんじゃなくて、足の内側でボールを軽く止めてあげるんだよ

と、お父さんは説明する。ボールのトラップの仕方を教えているようだ。世のお父さんはみんなサッカーが出来なくてはいけないな、と思うくらいにはサッカーは子供にとって人気なスポーツだ。

その脇では、ベンチに腰掛けた女性がそんな二人の姿を眺めている。きっとこの3人は家族なのだなと私は思う。両親が自分たちの子供を見るその目には、愛と優しさ、そして子供の輝かしい未来に対する期待が映っている。

既に完成された幸福

私が目にしたこの家族空間は、社会とは隔絶されている。この瞬間は完成されており、その他いかなるものが入っても、それは”ノイズ”となり、この完成された瞬間を破壊する。

隔絶されている、というよりは、隔絶されているべきものである。この瞬間における演者である「父」「母」「子」の三名にとって、社会その他のことは”どうでもいい”。意識することもないし、意識する必要もない。

この幸福な瞬間に、わざわざ「ああ、この世界には問題が満ち溢れているよ」などと意識をするだけ、この完成された瞬間が壊れることになるだけだ。既に彼らの幸福は完成されている。

この社会は本当に不幸で満ちているか

自分から見て不幸だと思う人間が、実は本人は不幸だとは思っておらず、むしろ幸福ですらあることもある。これは「幸福になることを他者が助けるべきか」という論点で、寄付や支援などにおいて挙がることがある。個人レベルでいえば「余計なお世話(It’s none of your business.)」というものだ。

あなたの幸福を私に勝手に押し付けないでくれるかしら?

自分の中では良いことをした気になっていても、実は全く相手のためになっておらず、単なる自己満足であった、ということはしばしば発生する。そのため寄付も、集めたお金が本当に支援先のためになるように、その用途や資源配分は専門家や当事者と協力して決めるというのは、よくある話である。

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あまりの押し付けがましさに観てられない

私がここで言いたいのは、1日1ドル以下で生活する人でも幸福になれる、ということではなく、あくまで幸福であるかどうか判断できるその主体は、他者ではなく自分自身である、ということだ。

にも関わらず、「この社会は不幸に満ちている」と断定していないか。それは単なる驕り、自己満足、そして願望なのではないだろうか。自分が幸福になるためには、社会に問題があってくれなくては困ると。この社会の問題を解決することが私の喜びであり、幸福なのであると。

そういった人たちがいることで、人類全員が幸福になったら、必ず不幸になる人も出てくる、という逆説的な現象が起きるのではないか。もしそうであるならば、そもそも「人類全員が幸福になることは不可能」ということになるのかもしれない。

「外的環境」による幸福な社会の実現

物質的・経済的な指標から幸福度合いを判断しようとすることは「外的環境」の整備によって幸福が実現されるということを前提にしているように思う。これだけのお金を持ち、こんな仕事をして、こんな人間関係を持ち、こんな暮らしをしている、故に幸福である、という図式を構築する。

明日を生きることにさえ困っている人がこの世界には多く存在する。そういった人たちに対して、生命を守るために必要な援助を行うことに、私は心から賛成する。“人間らしい生活”に必要なベースとなる部分が担保された社会を創っていくことは確実に必要だと思っている。

行動経済学者のダニエル・カーネマンは著書『ファスト&スロー』で年収約7.5万ドルが人間の幸福度は上限としているようだ。統計的には、年収の国際的な平均値を高めていくことで、世界的なベースとなる幸福度合いは高まっていくのではないだろうか。

しかし、それはマクロとしての話であって、あなたが、私が、幸福であるかに対する答えとしては不適切であるように思う。現にどれだけ物質的・経済的に満たされていても不幸な人はいるし、年収が少なくても幸福です、という人はいる。それらが存在する事実は「外的な指標では幸福を判断することが出来ない」ことを示すための反例になる。

「内的世界」による幸福な社会の実現

ここで、内的世界が登場する。自分の外的環境をどのように認識・評価するか、というのが内的世界である。内的世界が磨かれることが必ずしも幸福を意味しないことは注意が必要な前提であるように思う。

私の意見としては、人類の存在は「奇跡」であり、さらにその中での”私”の存在は「奇跡」×「奇跡」=「なんかもう信じられません!」である。そんな奇跡の申し子である我々人類が幸福に至るように都合よく設計されているとは限らず、たどり着く自分の中の答えが幸福に至らせるとは限らない。故に、論理のもとに内的世界を磨き続けた一部の人間は絶望的な結果を遂げている。

内的世界を説明する卑近な例を挙げよう。

夏休み、私は大好きなアイス「チョコモナカ(ァ)ジャンボ(ォ!)」に囲まれている。果たして私は幸福だろうか?

この状況を幸福と呼ぶのは、外的環境による幸福の判断だ。カーネマンによれば、人間はチョコモナカジャンボ3本が幸福度の上限なんだとか、そうじゃないんだとか。

しかし、あなたは知らない。先月から私が”知覚過敏”になっていることを。知覚過敏の中でアイスなど食べてしまえば、私はその激痛に悶え苦しむことになるだろう。

つまり、知覚過敏の有り/無しによって、私の幸福度は上にも下にも大きく振れる。「冷たいものは辛い」と評価する機関が自身の中に存在していることになる。同じ状況であっても、それを心地良いと思う人もいれば、居心地が悪いと感じる人もいる。このように、環境状況のインプットを受け取り・処理し、判断を行うものが内的世界である。

内的世界の状況によって、同じ環境であっても、幸福度は異なる。各人が置かれた環境を幸福的に捉えられるような内面を獲得していくことで、総和的に社会を幸福にしていく。自身の思想や哲学を持つ・磨く、という形が近いと思う。思想家の役割とは、内的世界の限界を押し広げ、人類全体の内的世界の前進に貢献することである。内的世界の成熟度ピラミットの頂点の限界を押し広げて全体を底上げする。これまでの人類も、ある思想に沿って社会を構築し、生きる人間全体がそこから幸福を享受してきている。

外的環境側からの内的世界への批判

ドストエフスキーを信奉していた世界的な作曲家のグスタフ・マーラーは、

地上に誰か一人でも苦しんでいる者がある限り、どうして我々は幸せになれようか

と話していたと言われている。個人が内面世界に自身が幸福になる方法を見出し、自分自身がたしかに幸福になれたとしても、それは社会に対して何も寄与をしていない単なる自慰的行為に過ぎず、問うべきは「どのようにして世界全体が実際的に幸福な環境を創り出すことができるか」ではないかという批判だ。義を見てせざるは勇なきなり、に近い。

自分以外の人間が幸福ではないことで、自分の幸福も揺らいでしまう、というのは理解できる感覚だ。逆に「シャーデンフロイデ(≒他人の不幸は蜜の味)」という概念もあるが。

より多くを知ることは不幸であるか

知ることは責任を感じることでもある、と思うようになった。その責任を「背負う」かどうかは別として、しかし責任が存在することを知ることになる。

電車で自分が座っている時に、席を譲ったほうが良いと思われる人が目の前にいたとして、そのことに気づいているか否かで、精神状態は大きく変わる。

気づかなければ、悠々とYoutubeでも見ているかもしれないし、もし気づいたならば颯爽と「どうぞ」といって席を譲るべきか、でもちょっと恥ずかしい、周りが実は譲るんじゃないか、なんて葛藤することだろう。譲ることに慣れていないあなたは「気づかなければ良かった」と思うかしれない。

問題の存在を知ることで、自分の幸福が乱されることがある。世の中にはたくさんの問題が存在することを知り、私は眠りにつくことができなくなる。こうして何気なく過ごした一日の裏には、失意の中に生涯を終えていく人たちがいるのだと知ってしまったのだ。

さあ、私たちはより多くを知るべきなのだろうか。より多くを知ることで私たちは幸福になれるのだろうか。サッカーをしていたあの家族は、この世界の闇を知るべきなのだろうか。完成された幸福に対するノイズになるのではないのだろうか。

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サノスは、インフィニティ・ガントレットで世界を原子レベルまで粉々にして新たに創り直すと宣言。キャプテン・アメリカが「流した血は?」と聞くと、サノスは「その世界で生きる彼らがそれを知ることは無い」と答える。

新たな世界で生きる生命は、犠牲にされた存在を知ることはない。だからこそ、幸福に生きることが出来る。もし犠牲を知ってしまえば、作り出された幸福な世界を受け入れることができなくなる、ということだ。

目をつぶる社会が正しいのか

じゃあ、周りになるべく目を向けずに、自分の不幸にマイナスを及ぼすものには、目を向けないようにしよう、なるべく視野を広げずにいよう、なんて言えばよいのだろうか。いや、それにも同意できない。

それは幸福以上に、自分を人間たらしめるべきもの、幸福とは異なる質を持った自分が人間で在り続けるために必要なエッセンスが存在するように感じる。このあたりはまだまだ言語化が足りない。

おそらくは「人間の幸福の感じ方」という大本に手を出さない限りの延長線上として、社会全員が幸福な状態というのは幻想であって、それは瞬間的・期間的な幸福の感じ方という話でもそうだし、シンプルに多様性の中で生じる幸福相反的な意味でもそう。

多分現実は「ヌルっと」幸福のボトムがじわじわと高くなる。ベースラインに満たしていなかった割合は減っていくが、トップの割合は対して変わらない。精神的な不満足や不幸感はいつまでも存在し続ける。ベターを追求し続けるが終着点はない。幸福と不幸の追いかけっこが終わることはない。ユートピアともディストピアとも言えない世界を続けていくのでは。

数世紀前の本を読んでも、人間が考えること、感じていることは特に変わっていないんじゃないか、と思うことが増えた。技術的な進歩と人間の幸福度はそんなに関係ないのではないか。医療などの進歩は歓迎すべきことなのかもしれないが、複雑化された社会はこれまでになかった悩みやストレスのタネも創り出している。果たして我々の未来に更なる幸福はあるのだろうか。

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もし幻想を追い続けるならば、「幸福やストレスまでもをテクノロジーで管理するようになるまで発展する」ことが一つの解法だろう。しかし、それが果たして幸福と呼べるのだろうか。

目の前に押すだけで最大幸福になれるスイッチがある。人生の目的が幸福の最大化ならば、スイッチを押し続けることであなたは最高の人生を送ることが出来る。あなたはこのスイッチを押し続けますか?

単純化するとこういう問になるのだろう。こうなった社会に人間の尊厳はもはや存在せず「目的は手段に飲み込まれた」といえるのではないだろうか。きっとそれが技術的に実現できるのは軽く私が死んだ後であろう。しかし、それを知ってしまった今の私には「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉が響いてしまう。さあ私は知らなければよかっただろうか。

歴史は繰り返すか

度々登場させたくなるビスマルクであるが、

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ

という彼の言葉について本件では、お金はある程度までにしか幸福にしないとノーベル賞経済学者が言っていて、過去の偉人も「お金じゃ幸福は買えない」とみんなが口を揃えて言っていることが「歴史」と呼べるだろう。

それでも「年収上げてぇ!!!年収3,000万円は欲ちい!!!」みたいなことを言い続けているし、年収ランキングが高い企業が人気になるのだし、年収でマウンティングをしている。歴史はめっちゃ分かりやすく「あかーん!そっちは愚!!」って言ってるのに、分かりやすく向かってどうする。

新卒で外資IBDでも入社して、20代でそこそこ稼いでFIRE(Financially Indepnedent, Retire Early)して悠々と暮らすことに幸福の道があるならば、年収!年収!って考えてもまあ理解はできる。お金は多めにあっても困ることは少ないから、登れるうちに登っておく。

でも、これも結局「そのお金を自分の幸福に転換できるか否か」次第なのだと思う。それは自分自身の内的世界に依存する。自己否定の関数を持ってしまった人間にとって、悠々と暮らすことは自己否定の対象になりえる。力を持っているのに力を行使しないことを義務の放棄、ノブレス・オブリージュからの逸脱と考えてしまえば、不幸に苛まれるかもしれない。

もし誰もがそれを理解した上でのお金追求であるならば、それを「愚」と断定するのはいささか早計だ。

ビスマルクの言葉の意味として、過去の人が既に知ったことを身を持って学ぶことは、歴史が繰り返しているだけで、人類の進歩的な意味はない、ということはよく理解できる。

しかし、自分の身で体験しなかったことをそれらしく語っている人間が果たして本当に「賢者」であるか、とツッコミたいし、体験的な理解を飛ばして、歴史の論理的な理解の元に立って戦う人間が人類の可能性を広げるんだろうか、という点には疑問がある。

さあ、誰が間違っているんだ。何が間違っているんだ。そして、何が正しいんだ。きっと正しさも答えなど存在しない。この文章を書く中で考え方は広まる一方で幸福に対する確信は高まらずモヤモヤは残り続ける。それでも、私の中のこの蟠りが”解ける”時は来ると今の私は信じている。今はそれだけで十分としよう。