『恋はデジャ・ブ』が示す思想

※以下、映画『恋はデジャ・ブ』のネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。

先日観たビル・マーレイ主演の映画『恋はデジャ・ブ』が非常に良かった。物語のジャンルとしては、今どきの映画・アニメでは珍しくない、いわゆる「ループもの」である。

有名な所では『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『ミッション:8ミニッツ』『STEINS;GATE』『リゼロ』『まどかマギカ』などだろうか。

最近のループものは構造として、悲劇的な未来を避けるために主人公が頑張る、という大筋のストーリーが主で、好きな人や大切な仲間を助けることが主人公の動機になっている場合が多い。(シュタゲでは牧瀬紅莉栖、まゆしぃ、リゼロだとエミリアたん … etc)

ループの条件が「死ぬこと」の場合も多く「死んでもあいつを守る!」というピュアな動機に突き動かされる主人公に共感しやすく、素直に応援したくなる物語の構造なのだと思う。

一方で『恋はデジャ・ブ』はループものではあるが少し属性が異なる。

避けるべき未来を避けるのではなく、特定の時間から抜け出すことが出来ず、死んでループすることも出来るが、その日が終わって朝起きると同じ日に戻るという「そもそも明日が来ない!」というちょっと珍しいパターンである。そして最後までループする理由も明かされない。

しかし、そんなループ物語の中に、現代人に対して発せられたメッセージがあり、自分としては映画が示したそのスタンスに共感できた。今回はそんなことを書きます。

ストーリー(※ネタバレ含)

自己中心的な人気天気予報士のフィルが、田舎町パンクスタウニーでのGroundhog Day(=アメリカで2月2日に行われる天気占いの行事)をリポートに訪れた際に、時間のループにはまってしまう。何をしても2月2日を繰り返してしまい、明日(2月3日)を迎えることが出来なくなる。

初めは何をしても翌朝にはリセットされることを良いことに、やりたいように振る舞ってみる。しかし段々と何をやっても明日が訪れないことに絶望し始め、遂には自殺を繰り返す。ところがそれでも明日は訪れない。

その後フィルは、思いを寄せている同僚のリタとの交流を経て気持ちを立て直す。ポジティブに生きることを決め、有り余る時間を使ってピアノを習ってみたり、断り続けていた鬱陶しいセールスに快く乗ってみたり、街の色んな人を助けるようになる。途中に、2月2日の全てを理解している自分でも、死ぬ運命にある老人をどうやっても助けることが出来ないこともある、という無力感を感じながらも、それでも強く生きていく。

その結果、生き方を改めたフィルは無事に明日(2月3日)の朝を迎えることに成功し、リタの愛も勝ち取り、そのままリタと初めは嫌っていたパンクスタウニーに住むことを決める。

ストーリーにおけるメタファー

主人公のフィルは、2月2日を繰り返す中で種々の行動を取る。

  1. 初めはループしていることを確かめる。
  2. 何をやってもお咎めなしなので暴れてみる。
  3. そのうち明日が来ないことに絶望して自殺を繰り返す。
  4. これまで避けてきた街の人間と前向きに深く関わるようになる。

私の解釈としては、繰り返されるフィルの2月2日は「私たちが生きる毎日」という風に置き換えられる。多くの人間が繰り返される毎日を感じている。

もちろん映画とは異なり、私にとってカレンダー上で日は進んでいるのだが、本質的には変わらない。同じ人、同じ仕事、同じことの繰り返し。それらに対して「退屈」を感じている。そんな毎日を送っている人はきっと少なくないはずだ。

その退屈の中で、私たちはこれまでの繰り返しではない「明日」を望み続けている。目を覚ましたら、素晴らしい明日が訪れるのではないか、ということに望みをかけて、その退屈な一日をなんとか乗り越えようとする。

しかし、そのように未来に希望を抱いても、実際にはそんな「明日」は一生訪れない。その結果、時には自暴自棄になって(フィルは警察とカーチェイスしたりする)、もしくはその現実に耐えられなくなって自殺を試みる。しかし、そんなことをしたとしても望む明日は訪れない。では、どうすれば良いのか。

このように現代を生きる我々の人生のメタファーとして物語が作られているように思われる。そして重要なのはこの作品が「どんな答えを示したか」という点だ。

『恋はデジャ・ブ』が示したスタンス

その問いには、ポジティブに生きることを決めたフィルが、思いを寄せるリタに対して愛を伝えるシーンでのセリフが象徴的だ。

No matter what happens tomorrow or for the rest of my life, I’m happy now.

明日どうなろうと 将来どうなろうと 今は幸せだよ

昨日も明日も、いうなれば仮想的な概念なのであって、実際我々が感じられるのは「今この瞬間」のみである。私たちの人生とは、今この瞬間の繰り返しに過ぎない。私たちは明日を感じることも、昨日を感じることも出来ない。

明日に思いを馳せることも、過去を懐かしむことも出来るが、それは「今この瞬間」においてそれを感じるだけだ。どこに逃避しようと、今という瞬間から逃れることは出来ない。

この映画が伝えているのは、そういった現実を受け入れて、「今幸せであることを大切にしよう、そのために出来ることをして、今をより良く生きようよ」ということだ。

「明日は良くなる」と思いながら、今日を、今を犠牲にし続ける生き方はきっと良い結果をもたらさない。明日を良くするのではなく、今をより良くしよう。なぜなら、私たちが感じられるのは「今この瞬間」だけだから。

このセリフで“Tommorrow”と対をなす言葉が“Today”ではなく“Now”なのが興味深い。”Today”も結局は幅を持った期間であり(ex. 同じ今日でも朝から見れば夜は未来のこと)、”Today”の中でも我々が感じられるのは、やはり“Now”だけである。

“I’m happy today”ではなく”I’m happy now”であるのは、”人間の制約とも、持ちうる全てとも言える”Now”という感覚にメッセージの核があるということに思われる。

上記のようにiOSのボイスメモをイメージしてもらえると良いかもしれない。常に自分たちが認識できるのは”今”であり、この瞬間における未来も次の瞬間には過去になっている。自分の今(画像の真ん中の赤い線)の上を時間の流れが通り過ぎていくだけ。どんなに待ち望んだ”未来”も、一度”今”で実現すれば、二度と実感することが出来ない”過去”へと流れ去っていく。それが一生続く。

Now、今という感覚は、「生きるか、物語るか」で言えば「生きる」であり、「思考する自己か、認知する自己か」で言えば「認知する自己」である。仏教が大事にしている事でもあると思う。

“今”という瞬間に人間が求める全てが既にそこにある。

神話学の世界的な権威であるジョセフ・キャンベルは『神話の力』でこのように言った。時空を超えて生まれてきた神話・宗教を知り尽くした彼の言葉であるからこそ、古来人間が求め続けてきたものについて非常に示唆に富む。

人々はよく、われわれは生きることの意味を探っていると言いますが、人間がほんとうに探求しているのは、たぶん生命の意味ではありません。人間がほんとうに求めているのは、<いま生きているという経験>だと思います。純粋に物理的な次元における生活体験が、自己の最も内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。

“今”という体験を求める人間の本性と、実感できる今を大切にして今をより良くしようと生きるべきと説く『恋はデジャ・ブ』はつながっているように思う。

我々は未来に対する期待や、過去に対するノスタルジーに囚われ、今という瞬間を軽視する。しかし、本当は自分たちが求めているものは、全て”今”という瞬間に存在しているのだよ、ということをこの映画は思い出させてくれる。

『恋はデジャ・ブ』は「文化的・歴史的・芸術的にきわめて高い価値を持つ」と見なされた映画だけが登録されるアメリカ国立フィルム登録簿に永久保存登録されている。それだけの価値がある名作であることに疑いはない。

ぜひ皆様、一度御覧になってみてください!

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