Outsiderの生きる道 | 前進する議論 | 上達に向けた意識のコントロール

気づけば、2020年も残り3ヶ月。コロナショックが始まってから半年以上が経過している。自分の認識する範囲では、コロナに対する意識的な緊張感は見えなくなり、皆が習慣によってWithコロナ的な行動を続けているだけのようなフェーズに入ったと見えている。つまり「なんかね、疲れたし、割と慣れちゃった」ということだと思う。人間恐るべし。

私は初めからそんな外に出てワイワイするようなタイプでも無かったのだが、先日の外出自粛やリモートワーク定着により、一層インプットする時間が増えた。知的好奇心とは面白いもので「既知が次の未知を生み出す」のであり、知れば知るほどに「あれも知らない、これも知らない」と知の無限性に吸い込まれていくのだ。しばらくこの深淵からは逃れられそうにない。

現在60冊位が積読されており、全部積み上げると自分の身長くらいにはなる。本は読んでも良し、投げても良し、重りにしても良し、盾にしても良し、燃料にしても良し。本は汎用性が高いのだよ。

そんな最近の雑感を綴る。

哲学・思想・物語の使い方

色んな哲学や思想、小説・映画などの色んな物語があるが、それらをどのように活用していくか。そして、どのように良し悪しの評価を自分はつけているのだろうか。自分にとって、これらのインプット媒体はあまり区別がされていない。ある1つの視点で評価を行っているからだ。

「自分が今をどのように生きるかについて何をもたらすか」

この点でしか無い。

但しこれは単純に「アクションにどう繋がるか」といったビジネスチックな意識の高いことを必ずしも意味しない。世界の認識を改めることによって、自分が感じること、自分の状態が変化する。

その変化は自然に次なる行動を喚起する。世界の見え方が変われば、生き方も勝手に変わる。関数を変えれば、同じインプットでも出力結果は異なってくる。ひとまず関数の中身を変えて、コーヒーでも飲んで、散歩でもして待っておけば良い。

映画も本もアニメも、どれも知的好奇心を満たすという意味で、即時的な快楽を届けてくれるマクドナルド的な存在で、その面では普通に作品としての出来とか、エンターテイメント性が重要なんだけど、「自分の生き方に対する示唆」での評価は全く相関せず。

高尚な哲学でも何も考え方変わんないとかもあるし、単なるエンタメアニメがめっちゃ深く刺さって「今日から〇〇(キャラクターの名前)みたいに生きよう!」とかなったりするので。

今日から俺は岡崎朋也だ!

そういう意味では、インプットのインパクトは中身を観てみるまで全然予想が出来ない。

アウトサイダーが生きる道

思考が現実性を飛び出し「ゲームアウト」しがちな人間(ここでは一旦アウトサイダーと呼ぶ)は、普通に生きることにも結構苦悩してたりする。

意識的な「ゲームイン」をしないと、悲惨なエンディングを迎えることになるが、ゲームインという行為はアウトサイダーにとって妥協・迎合的な側面があるので心理的な反発を感じてしまいがちである。

アクセス可能な範囲の中で意識的なゲームアウトであれば、何も問題ないのであるが、アウトサイダーの特徴はそのデフォルト設定の場所(=重心)がゲームの外にあるという点が問題である。 重心が外にあることで意識しないと、どんどんと勝手に現実離れしてしまい、簡単に言えば「生きづらい」ということ。

軸はまだしっくり来てない。特に横軸。希死念慮に囚われ、その日さえも生きることに苦労しているのがアウトサイダーという印象はあるのだが、必要条件か分からないので、ブラッシュアップが必要そう。

人間の個性は、心理的なアクセス可能な範囲の広さ、に対して人ごとにその「重心」が決まっている。ゲームの外に重心がある人はそこに引っ張られ続けるので、現実世界で生きるのに苦労する。

アウトサイダーはアウトサイダーなりのこだわりがあるので、下手に迎合するなら喜んで破滅の道を選択することもある。全く本当に厄介なものである。でも、割と死ぬより生きるほうが良いってことで、皆なんとかやりくりしている訳だ。

教養的に哲学している人は、重心はゲームの中に残しながら、知識として意識的にゲーム外にお散歩しているだけなのだが、いわゆるソクラテスみたいなThe哲学者は完全に重心がゲームの外にあるので、意気揚々と服毒するみたいなことがありえる。

例え、ソクラテスと同じ思考にアクセス可能でも、同じ行動をするかは、重心の位置によって異なる。「言行一致の度合い」「身銭切り度」とも近いかもしれない。思考した内容をどれだけ「自分の生き方」に反映させているか?が重心には現れる。

そんなアウトサイダーが生きる上で取りやすい生きる方針が分かると安心だなあと思い、自分の中に何個か見えたので書いておく。

①装置化する

人間を習慣の奴隷という意味で「機械的な存在」として捉える。特定の状況に置かれた際に人間がどのように振る舞うかは、その思考によらず決まってくる。自分が好ましい行動を取るように環境設計を一度行ってしまえば、後は自分の意志とは無関係に行動を続けることが出来る。(あくまで理論値的には)

究極的には、自己のハンドルをコンピュータに握らせれば良い。しかし、人間を人間たらしめると考えられる要素の1つである「意志」を自ら失う選択をするということを自分が認められるか、という点が葛藤のポイントになる。

②自覚を持って生きる

『ぼく』と言っても、それはぼく全体ではなく、ぼくの心を指しているにすぎないということだ。ぼくは仕事が好きなので、たゆまざる努力によって、理性だけではなく、ぼくという人間全体が心底からそれを好む習慣をつけることを課題にしたんだよ。

それにぼくは、この世で自覚をもってする仕事が無駄になることはないと信じている。遅かれ早かれ、それは報いられる。つまり、仕事をすることで僕は二つの目的を遂げることになる。第一に、自分という人間に怠けないことを教えられるだろう。第二に、老後の蓄えをすることができる。

(中略)

ぼくが仕事をするもう一つの理由は、人生でただ一つの真の満足は、強制によってではなく、自覚によって働くことにあるからだ。同じように日夜働き続けても、人間がカラバックのロバと違うのはそこなんだよ。

ーG.I.グルジェフ『注目すべき人々との出会い』

これはガラスの檻に閉じ込められた人間の生の苦痛を「自覚」を持って乗り越えていくという勇敢な姿勢である。どうせ、苦しいなら楽しもうとする。意志とは無関係である①とは逆軸で、こちらは自覚して生きることに価値を置く。

しかしなぜ「自覚」してまで生きなければいけないのか、という問には答えられない。また思考停止ゾーンは「自覚の元で生きることは良いこと」に設置されており、その前提は疑えない。

③物語る

今、今、今、今、今、今、今、今、今、今、今、今、今、今、今・・・

と続く私たちの人生を纏まりをもった物語として捉えて、その全体の中のある章を生きているのが今であると考える「物語る」方法がある。冗長に繰り返される退屈と渇望を強靭な想像力で乗り越える。私は物語の登場人物なのであると。

わかりやすいのが、宗教に身を預けるという方法。世界的に見れば③で生きている人が大半になると思われる。が、アウトサイダーと宗教はあまり相性は良くない。

信仰できる「物語」が見つかれば、私はアニメでも漫画でも独自創作の物語でも何でも良いと思います。

議論の前進について

右に対してもっと左と言うこと。左に対してもっと右と言うこと。これらは議論と呼べない。実際は環境の変化の中で、同じ結論の見え方が変化して新鮮に見えているだけ。使い古された言葉でいえば「歴史は繰り返す」ということかもしれない。

ある一貫性の元に作られた構造物に対して、批評をするのではなく、別の構造物を作ってぶつけあうのが、前に進んでいる議論であるように思う。意外と自分である一貫性のもとでアウトプットとしての構造物を建てられる人は少ない。大半が建てられた構造物を非難/批判するか・称賛するだけだ。

単なる批判は歴史を後ろに戻すだけであり、前進は生まない。例えば、今の政治システムを批判することはいくらでも出来るが、現行のものに変わる一貫性を持ったより良い政治システムを構築することは至難である。右と左を行ったり来たり、トレードオフを行ったり来たりしてても、次なる次元には進めない。

前進しているように見えるのは環境が変化しているからに過ぎない。構造物としての完成度を高めるには構造物同士のぶつけ合いが必要。弁証法とはこういうことかも?

カプースチンかっこいい

カッコいい・・・

最近脳科学と意識について多少インプットをして、学習においては思考の意識化 → 無意識化がポイントだなと。人間は注意する自己を単一の対象にしか向けられず、例えば同時に右手と左手両方の動きについて思考する、のような複雑なコントロールは不可なので、基本的なやり方はシナプスレベルで変化させて、意識上の領域から 無意識上の領域に持っていくこと。楽器は文字情報的に考えて弾ける速度を超えている。意識上で出来るはずがない。

もう1つ自分が発見した方法は「関係性」に対して意識を向けること。

AとBといった、閉じた1つの物を意識すると対象が複数になってしまうので、AとBの間にある「関係性」に対して意識を持っていく。これであれば意識上でも対応が可能である。でも結局はこれも一時しのぎにしかならないので、これを使いながら自分の無意識下に刷り込んでいくイメージ。結局物事の上達の本質は意識を無意識化していくことに他ならない。

あとは、目を瞑ったりすると多少変わる。自分が外界から受け取る情報は視界そのものではなく意識の注意のさせ方で決まってくる。なので何かに集中していれば入る情報は減るのであるが、視界に何かが入ればその情報は必ずノイズになる。

逆に、何かを意図的に意識しながら練習をすることで、メインではなく水面下で働いているコンピュータを呼び起こして、そっちに直接的に刷り込む、みたいなやり方もできそうな感覚がある。この辺りをトライアンドエラー中。