「生きづらさ」を分解してみる

理解によって恐怖を克服する

「理解できないもの」というのは非常に心地悪いもので。アルゴリズムに含まれる要素は別に完全に理解しきれていなくても良いんだけど、ひとまず自分で結果がコントロールできるようになると安心する。

私を含む世の中の95%くらいの人はPCの仕組みを理解していないんだろうけど、結局こういう使い方をすれば、検索が出来て、ブログが書けて、人と繋がれて、特にトラブルに巻き込まれることも無い、ということは理解できており、そんな訳でPCの仕組みを理解していないからといってPCを怖がる人はいない。

ホラー映画とかも結局「なんでモンスターが襲ってくるのか?」とか「なんでモンスターが発生するのか?」とかが分からんくても、モンスターの苦手なものが分かったり、発生のメカニズムが分かったりするとモンスターに対する怖さは半減する。根源的に「何者」であるのか、を理解していないにも関わらず。おそらくは「自分に対する害をコントロールできる」ための理解がおそらく人が最も重視しているポイントなのだと思う。

二つの世界の共存

最近は、人間の世界を「2つの世界が重なっている」と捉えると非常に考えやすい、と思うようになった。

1つ目は、物理的な世界。普段人間が目にしている世界で、空間的・時間的なルールに沿って物理的に動いている。意味やら目的やらは本来的にはこの世界には存在していなくて、淡々と物がルールに沿って動いている、というだけ。

2つ目は、精神的な世界。人間が目にすることはない世界で、人間の内側にある。意味やら目的やら云々はこちらの世界の住人。「私」もこちらに在住。本来2つ目の世界と1つ目の世界は独立なのであるが、身体と意識の間に1つ目の世界と2つ目の世界の繋ぎ目があり、身体を通じて1つ目の世界にアクセスしている。

しかし、面白いことに、私たちは2つ目の精神的な世界に住んでいながら、自分たちの世界についての理解は非常に限られている。なんでそんな事態になってるのであろうか。

認識の範囲に持ってくる

人間も動物から進化してきた、という経緯を考えると「種の存続の鍵は常に自己の外に在った」ということなのではないか、と思う。食料も繁殖も外敵も常に自分たちの外にある。そう考えると、個の内部にアクセスする手段よりも、外部にアクセスする手段が進化してきた、というのは想像に難くない。

そんな結果、人間は自分たちの内側にあるものがうまく理解できない。それをそのままに上手く理解、コントロールする手段を持たない。理解できないことは怖くなる、不安になる。なんとか解き明かして安心しようとする。言語化することも、自傷行為もそういった不安に対する行動という意味では共通するような気がしている。

つまり、精神世界の事象を「言語」や「行動」を通じて、認識・理解が可能な物理世界に持ってくる、という行為である。言語化は精神世界にある対象を言語というツールを用いて、物理世界の事象にコンバートすることであり、自傷行為は、精神世界での痛みを物理世界での痛みにコンバートすることである。

言語化っていうのは要するに精神をこちらの世界に引っ張り出して屈服させるみたいな行為なのかもしれない。文字通り「言葉の暴力」ってやつでしょうか。

自分がなんでブログ書いてるんだろうみたいな話

この前段からすっごい変化球的なところに立ち戻ると、なんで自分がブログ書きたくなるんやろうな、みたいなところで、目的が2つ見えてきている。

1つ目は、言語化することでコントロールし安心したい、ということ。自分の中での正体不明のモヤモヤ感みたいなのは言語にコンバートして、理解可能な物理世界に引きずり出す。自己に関する支配権を強めたい。根源的な欲求としては生存欲求に基づくんだと思われる。現代の日本の中で自分の生存を脅かす対象は基本的には自分の外よりも中に存在していると思っている。自分が「この世界に生き続けたい」と思えなくなることが、自分にとっては最も回避すべき(≒生存を脅かす)リスクと認識しているのだと思われる。

2つ目は、精神的世界のコントロールを可能にしたい、ということ。最近思うようになったのは「人類生まれてから現代に至るまでに幸福になっているんだろうか」という疑問が生まれたことがきっかけで。人間にとって良い状態を生み出すための2大変数は①自己、②環境、だと思っていて、この掛け算によって人間の良い精神状態が生まれると思っている。

時代による社会の変化って結局は主に②についてだったのでは無いだろうか。でも、それを受け取る側の①って別にそんなに変わっていないのでは、ということを各宗教の聖典とか神話とか色んなところから感じるようになった。結局退屈と渇望を繰り返すというのであれば、本当に人が良い状態を目指すには、環境に対するアプローチよりも、自己に対するアプローチが正解なのではないか。つまり、環境を改めるよりも、環境認識の方を改めるということ。

例えば、実現可能性は置いておいて、今の日本でのそこそこ満たされたぐらいの水準の暮らしを世界70億人が出来るようになったとして「それ以上何を求める?」って問われた時に「もう十分じゃないっすか?」と私は思うのである。ボトムアップには再現がなく、課題は解決すれば次の課題を生むだけである。そうなると、そもそも環境(物理世界)に対するアプローチが間違えていて、環境認識(精神世界)の方をもっと成熟させようよ、と思うのである。

だがしかしbutで、残念なことに上記の説明の通り、言語を通じてでは精神世界に自由にアクセスすることが出来ず、自分たちに精神世界を論じたり、ましてや完全にコントロールすることは現段階では不可能なのである。なので、これまでとは違ったアプローチを取るしか無い。

自分の中で持っている仮説としては、精神世界と物理世界の繋がりを体験として理解していくことで、パターン化を行い、精神世界のコントロールトリガーを物理世界に作ることだと考えている。メカニズムがブラックボックスになってしまうことは避けられないが、特定の精神状態は作るための物理的行動トリガーがわかれば、示された精神世界の結果をコントロールする(再現性を生み出す)ことが出来る。

自分にとってのブログとは、その物理と精神のコネクションの解像度をあげる作業であるように思う。これについては、また別の機会で書くことにする。

「生きづらさ」を分解する

まあ、長い前置きなんだかよくわからない前段はさておき。今回は最近よく耳にする「生きづらさ」ってなんやろうな、みたいなのを考えた中身を書きたい。「生きづらさ」も精神世界の内容として、捉えられない場所においておくよりも、きっと人間が認識できる物理世界に引きずり出してあげると、対処できるものに変わっていくのではないだろうか。

とりま、どんな風に「生きづらさ」って形作られているんだろうね、っていうことを要素分解してみる。あくまで自分の実感値による分解であることは予め断っておきたい。

結論として、生きづらさとは「自分の内部と外部の不和」である。なので、その解消のためには、①内部を変える、②外部を変える、③内部-外部の相性を変える、④その組み合わせ、になる。

諸々分解していくと、内部つまり自己は「環境認識」である。環境認識は「自分の置かれている環境をどのように捉えるか」ということである。次に内部と外部両方に関わるのが「環境支配力」である。環境支配力とは「自分の置かれている環境をどの程度自分の自由によって変化させることが出来るか」ということである。力やリソースを持っていれば、自ら環境そのものを具体的に変化させることができる。

そして自己の外部は環境である。これらが上手く組み合わさらなかった結果として、感じられるものが「生きづらさ」である。

例えば「心頭滅却すれば火もまた涼し」なんて言葉は、環境がとんでも無い(=火)けど、火に対する自己内部の認識が心頭滅却しちゃっているので「涼し」なのだ。つまり生きづらくない。

例えば、以前の職場ですごい辛かったのに転職したらすごい楽になった。これは自己内部は変わらなくても、環境が変化したことによって、感じられる生きづらさが変化した、ということ。

例えば、色んな本を読んだら世界の見え方が変わってきて、人生が楽しくなってきた。これは環境はそのままに世界の認識が変わったということ。

環境認識を改めるには?

そんな風に分解するのは非常にイージー。で、環境を変えるのもイージーで、人間の古代からのアプローチは「対環境」なんだけど、そろそろ内に向いていこうぜに思う。まーマインドフルネスやらTransTechのブームとかってある種その一つなのかもしれないけれど、行為が目的化するよりも、精神をどのように変化させなければいけないのか、ということを理解する方に重要性がある気がする。とりあえずマインドフルネスして「ああ良いね」となるのも良いのだけど、問題は心のあり方の方にある訳で。

認識量

環境の情報をどれだけ拾ってくるか、ということ。生得的な部分と後天的な部分に分かれる。生得的な部分でいえば、例えば、生まれつき繊細で敏感というHSP的な特性はここに当てはまるように思う。後天的な部分で言えば、一つは保有している知識なども当てはまる。何かを知っているからこそ、環境が特定の見え方をする(=認識できる)ということだ。例えば、同じ沖を見て、漁師と素人が得る情報量は大きく異なる。今後の天候、魚の取れる場所など、漁師はより多くのことを同じ環境から把握する。同じ本を読んでも、得る情報の質・量が人によって大きく異なる。

情報処理特性

認識によって獲得した情報をどのように処理するか、というのが「情報処理特性」だ。ここは大きく三軸で人ごとの特性が分かれる。「処理」はニアリーイコール「思考」と考えていただいて良い。

軸①:具体 – 抽象

情報をベースに、そのまま捉えるのか、それともより抽象化して扱っていくのか。現実から得た情報を哲学まで持ってっちゃう人は抽象の人だし、見た情報を見た情報のままとして扱うのは具体の人である。

軸②:相対 – 絶対

ボトムアップ – トップダウンと読み替えても概ね同様と思われる。何かを起点にそこに繋がった情報を得ていくのが「相対型」である。このタイプの思考は、何か起点となる材料を継続的に必要とする。逆に目的からスタートして、一つの建造物を建てていくような思考は「絶対型」である。先に全体感があり、その実現に向けて構成要素を作り出していく。

軸③:脱Fusion – Fusion

軸①②による思考を、自己とどれだけ同一化させるか?という程度である。(もともと脱フュージョンは心理学用語であるが、ここでの使い方は多少ことなる)考えた内容を信じ、言動一致させる人間は「Fusion」しており、思考と行動を独立させているのは「脱Fusion」している。どの程度身銭を切っているか?とも言える。「死後の世界は素晴らしい」と主張してウキウキ服毒したソクラテスはこの定義でいうとめっちゃFusionしている。

自己肯定感

最後に、認識の方向性を決める要素として非常に重要なのが「自己肯定感」である。自己肯定感の高低で、環境認識がポジティブにもネガティブにもなる。ここがバイアスとしてあった上で、認識×情報処理の結果が扱われるので、自己肯定感が低いと、情報処理の結果もネガティブに扱われ、結果的な環境認識がすごい悲観的になりやすく、逆もまた然りである。

認識の形成・アップデートに影響するもの

ここまで上げてきた要素に影響しているのが、生得的特性や原体験、そして経験である。元々のベースの遺伝的な要素に幼少時の原体験によるバイアスの生成、そしてその後人生の長い過程における体験の積み重ねが、認識を形成・アップデートしていくことになる。

生きづらい場合の主なパターン

そんな世界の捉え方を踏まえて、So What?一旦分解・理解すれば変数触れるようになるので、ちょっぴり安心感あーっぷなのですが、生きづらさを感じるパターンを示しておくとより良いかな。

①環境認識と環境がミスマッチのパターン

同じ環境でも、楽しくやっている人と辛そうにやっている人がいる。これはマッチしている人、していない人がいるということだ。このタイプの生きづらさの解消方法はまあシンプルで「A. 自分を変える」「B.環境を変える」のどちらかになる。合わない職場を転職するのはBの典型例。

②環境支配力が弱いパターン

環境に抗う力が無い、ということ。環境の変化をモロに自身で受けることになるので、自己と合わない状況になっても「耐え忍ぶ」というオプションしか取ることが出来ない。生きづらさを感じていても我慢し続けなければいけない。

③抽象 × Fusion型の情報処理特性であるパターン

身体は物理世界にあり、我々が認識をする対象は物理世界サイドにあるということもあり、世界の情報は具体サイドで動く。環境への働きかけを行う時も、人間は身体を介す。なので思考が具体に寄っている方が何かと悩みにくい。逆に抽象は抽象にいけばいくほど物理世界から離れる。そして言語というツールもある閾値を超えると使えなくなる。なので迷宮にハマる。

ハマっても割り切れれば良いのであるが、ここに「Fusion」型がくっつくと非常にキツくなる。思考として、どうやっても逃げ道がない。まあこれはそもそも私自身と環境は別の世界を生きているからで、それをFusionさせて同一化させようと思っても、救いのある解にたどり着くことは出来ない。そこを切り分けて「思考は思考、世界は世界」とこの脱Fusionが出来ないと、精神的に追い込まれる。初めから出口の無い迷路に迷い込むことになる。

④自己肯定感が低いパターン

要素として改めて「自己肯定感」は非常に重要である。自己肯定感が世界の捉え方に影響を及ぼす。そりゃウキウキるんるんなら世界はバラ色に見えるし、ずーーーんとしてれば世界は灰色に見える。

自己肯定感は、周囲と経験による影響が大きいと思っている。何かをして上手くいった経験、周囲から認められた経験は自身の存在意義を肯定的に見出すきっかけになる。こういった経験を積み上げていれば自己肯定感は高くなるし、逆の経験が積み重なれば自己肯定感は下がる。ベースに自己肯定感があった上で、同じ認識量、情報処理特性をどのように扱おうか、という考え方がされるので、ここが低いと何をどうしても生きづらくなりやすい。

思考の具体-抽象と人生での有用性について

思考は抽象度高くなりすぎると現実離れするので、程々の所でやめておくのが小町的にポイント高いかも。

でもでも。人間としてのコア機能にレバレッジをかけるためには、多少深みに入っていかないと。ただ深淵を覗いて、深淵に覗かれ返してミイラ取りがミイラにならないように、というところだけ注意。

今回は一旦こんな所で。一旦アイデアのかけらとして残しておこう。