社会人としてアイセックのことを振り返る

今回の投稿を書くきっかけとなったのは、年末に出会った2つの文章。

1つは「年収1,400万円は低所得」という日経新聞の記事について書かれ、ちょっとバズっていた以下のブログ記事。

「日本は貧乏」説に「でも日本は住みやすいし楽しいから充分」と反論するのはもうやめないとオレら後進国まっしぐらだぞ

もう1つは、日経新聞の1面コラムである「春秋」に12月22日に掲載された、環境活動家グレタ・トゥンベリ氏についての内容。

春秋

日本ヤバいんじゃないか?

1つ目の記事から思ったのは「日本ヤバいんじゃないか?」ということ。

ぶっちゃけここ何年も「日本ヤバい」なんてのはずっと言われていること。改めて文字に起こしてみると「そうね、ヤバいかもね」くらいの軽さでしか受け止められない気もする。

この手の記事なんてのは、正直ファクトの見せ方で「日本すごい」にも「日本ヤバい」にも、どちらでも見せることは出来る。(メッセージありきで構成を組み立てるので、そこの見せ方が腕の見せ所)だから、そもそもこの手の話は真剣に受け取らないことも多い。

でもこの時、人類の歴史で培われている教訓「本当にヤバいと分かった時にはもう終わっている」を思い出した。そして自分はファクトの見せ方として問題をすり替え、単純に「ヤバいことを明白に示しているファクト(真実)から目を背けているだけ」の愚者なのではないか、ということを認知した。

いつも通りに流すことは出来る。それはいつでも誰でも出来る。しかし同時に、真実を真剣に受け止めて行動することを選択することも出来る。そして、自分にはそれが求められているのではないか?

「チェルノブイリ ドラマ」の画像検索結果

最近話題になった、HBOのドラマ「チェルノブイリ」には、”嘘の代償”という言葉が登場する。人間の保身や欲のために、不都合な真実から目を背け続けた結果、死傷者数千~数万人、4,000平方キロメートル以上の地域が放射能汚染により立入禁止、という取り返しのつかない結果を生み出した。それがチェルノブイリ原発事故。

原発事故の原因調査を行ったレガソフ博士は、ドラマの最後にこう言う。

Every lie we tell incurs a debt to the truth. Sooner or later, that debt is paid.

遅かれ早かれ、嘘によるツケを払うことになる。

「日本はヤバくない」と不都合な真実から目を背けた代償を、近い将来必ず払うことになる。以来、日本の凄さを賛美するような記事を見るとゾッとするようになった。いつまで真実から目を背け続けるのかと。

若者ヤバいんじゃないのか?

続いて「春秋」を読んで思ったのは「日本の若者ヤバいんじゃないのか?」ということ。

これは、決して他人事として「ヤバい」と思った訳ではなくて、社会人2年目の自分は絶賛若者の自分を顧みて「ヤバい」と思いました。

「人々の可能性が最大限発揮された社会」をビジョンとし「若者を中心としてリーダーを輩出することこそがより良い次代を創るカギである」と信じるアイセックでの活動に、大学生活の大半を捧げ続けてきたはずの自分が、より良い社会を志向しつつも結局本心としての関心は「自分はどうやったら幸せになれるのだろうか」視座がボトム of  ボトム of the yearという状態。

16歳のグレタ氏があそこまで社会に大きく問題提起をしている中で、24歳の自分は何をやっているのだろうか。

影響の大きさは、あのような舞台での発言であることにも起因するが、そもそもそこに立ったことはグレタ氏のこれまでの努力によるものであるし、志の差に言い訳は出来ない。自分自身が凄く恥ずかしく思えた。自分は所詮口だけだったのか、と。

アイセックのような社会を良くすることを志向する場にどっぷりといた人間がこのようであるならば、社会全体で見た若者は一体どうなのだろうか。

そのような組織に居なくても高い当事者意識を持って社会を良くしようと熱意を持って生きている人がいることは良く知っているし、もちろん自分だけが視座の低いという可能性も十分にあり得る。しかし、学内・学外問わず色々な属性の同世代と関わってきた経験からは、とてもそうとは思えない。

更に、そんな所にTwitterでバズっていた安宅さんの投稿も重なりました。

若者は本当にこれで良いのか。

アイセックが教えてくれたこと

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あの人は何を思ってそれをしているのか?という現役時代の疑問

アルムナイの方々が、社会人での経験を経て、アイセックでの経験などをどう捉え直しているのかはSNSやブログなどの形でパブリックに発信されていることが少なく、基本的には自分から会って話を伺うしか無い。

自分が現役の時は「アルムナイがアイセックを経て、何を思って今そういう仕事・活動をしているのだろう」と疑問に思うことは多かった。どういう思いで〇〇という会社で働いて、どんな志の元に働いているんだろうか、と気になっていた。はたまた、やや穿った見方ではあるが、そこに志はあるのだろうか、とも。どういうビジョンのもとで、その会社で働いているのだろうか。などなど、好奇心の目はとどまることを知らない。

思えば、社会人になった後にアイセックでの自分の思いなどとリンクをさせて、本気で振り返っている先輩・同期は少ない気がする。少なくとも外に出されていることは少ないので、振り返っていても認知していることはない。(あくまで私の知る限り、だが)

ぶっちゃけ、殆ど誰も表明していないんじゃないか。それならば、アイセックに没頭していた自分としては、真面目に振り返って、今回のようにその内容を表明してみても良いのかなと思う。

あの頃の自分に向き合えない今の自分

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アイセックは自分の原点と言っても過言ではないくらい自分に大きな影響を与えている。2016年度まで活動をしていたので、もう3年前になる。

社会人になってから、アイセックとの接点は大きく減った。社会人として仕事をするようになり、仲が良かった同期とたまに会い、あとは後輩にアルムナイとしての仕事を年に数回依頼をいただく程度。

大学4年時は「アイセックに寄生してきた自分」「アイセックが無い自分」としてアイデンティティを確立するような期間で中々に苦労したが、社会人になって忙しい日々の中で、徐々にアイセックの無い自分が確立されるようになった。(アイセックからの自己の分離は、アイセックをガッツリやっていた先輩・同期との間ではよく話に挙がる)

アイセックが無い自分として生きられるようになった。それ自体はポジティブに捉えている。その一方でアイセックで学んだ大事なことも、同時に抜け落ちてしまったように思う。そして抜け落ちたのは、むしろ意図的とさえ思えるくらいだ。

「あの頃の自分が話していたこと、考えていたことは思い出したくない」ということさえ感じることがある。

恐らくその理由は

  • 社会人になり自分が大言壮語をしていたことを自覚し絶望するから
  • あの時は本気だった大言壮語を大言壮語で片付けてしまう今の自分がいるから
  • そんな小さな自分や絶望に向き合うことはしたくないから

だと感じている。

初めの話に戻って、私だったら社会人後にアイセック関係のことを積極的に表明しないのは上記のような理由になるだろう。率直に言ってしまえば、普通に恥ずかしい。関係者の皆様に顔向けできるほどの事を何も成していないし、これから成すに足る努力が出来ているとも自信を持って言うことも出来ない。

でも、それが守っているのは結局自分自身のプライドに過ぎないなと思う。それならば、1ケースとして世にまだ少ない情報になることで、何かしらの価値になる方が良い。

「若さ」という価値

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アイセックが教えてくれた大きなことの1つ「若さの価値」である。

年齢を重ねるごとに人は知識をつける。そして、家族など自分以外の人間を直接的に背負うようになる。

アンラーニングという言葉が用いられるように「知ること」はリスクにもなり得る。意思決定による利益と同時にその危険性を知ってしまうことで、意思決定に伴う痛みが見え、決定を引き伸ばしたくなる。過去の成功体験が正しい意思決定を妨げることにも繋がる。また他者を背負うことによって、リスクの評価が大きくなり、大胆な決定は難しくなる。

逆に若者は良い意味で「無知」だ。変数が少ないからこそ、大人には眩しいほどのストレートな正論を本心から述べることが出来る。

若者と大人は、同じ軸で存在価値を図ってはいけない。これら二者は「役割分担」なのである。若者の意見を「理想論だ」と断じていても仕方ないのだ。そもそも、大人が出したくても出せない、そういう意見を出すのが若者の役割なのだ。(もちろん議論においては質を高める義務が若者にも同様にあることは言うまでもない)

若者には意見としての論理性などに欠ける分、大人が中々担えない、高い熱量やまっすぐな思いに期待される部分が多いと思う。そして思いを持つことや熱量には経験や知識は関係無い。

大人になると変数が増える。学生時代までのように、自分を支えていたものはなくなり、とうとう本当に全てを自分で背負う時になる。そうなった時に、真っ先には「自分の身を立てること」に意識が向く。他者、社会は二の次三の次。自分が幸福になるために、リソースを使うようになる。そうなってしまっては、正しいが自分の利益に反することが分かっている意思決定を積極的に進められるはずがない。年齢や役職などを利用したり、論点のすり替えによって、正しい意見はどんなに正しくても潰される。

若者が若くいられる限られた期間を、何もせずに歳を重ねて若さを失っていくことは社会全体の損失であるように思う。いつの世も次代の中心を担い、その結果を良くも悪くも引き受けるのは若者なのだ。それを他者に任せていて良いのだろうか。

海外アイセッカーが抱く志

私はアイセックメンバーの中では、比較的アイセックを通じて海外経験をしている人間であると思う。(海外インターン3回参加の奇人として扱っていただけることも多い)

なので、海外で活動するアイセッカーの話も聞いてきた。その中で印象に残っているのは「自国や社会に対する問題意識の高さ」である。

インドの学生はすごくハングリーで「インドをもっともっと成長させて豊かな国にしたい」というし、中国・韓国の学生の東アジアの領土問題などに対する関心の高さ、意見の強さは日本の学生とは比べ物にならない。メキシコの学生は「メキシコをもっと平和に、トランプに負けない国にしたい」と言う。

日本ではどうだろうか。問題があるのに無いことにしていないか。問題はあるのに差し迫っていないことにしていないか。それらの問題を自分に関係があることとして、捉えているだろうか。

上記のようなマインドセットを持った海外の学生・アイセッカーがもし日本人で、現在の日本を見てどのようなことを言うだろうか。自分の国のために、若者として立ち上がろうとするのではないだろうか。

今の自分に革命が起こせるか

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2019年は香港でのデモが度々ニュースで取り上げられている。

誰が正しいとか、何が正しいとか、手段が正しいのかとか、そういった点はまず置く。恐らく唯一解はない。しかし、真剣に受け止めるべきは「香港の若者が意思を持って立ち上がっている」という点だ。

果たして、今の自分に社会へ問題提起をし、ムーブメントを起こすために立ち上がれるだろうか。正直な答えはNOだ、恥ずかしいほどに。社会そして日本に対する当事者意識が弱い。社会、日本のために命を捨てられる覚悟がない。

自分はこのままで良いのか。うん、普通に良くはないだろう。でもどうしよう、なにしようと、シンプルに出ている答えに対して、動機・内面の折り合いをつけるために遠回りをするオート防御反応。しばらくは呪いのような自問自答に悩まされ続ける。

自分はこれまでのアイセックライフで何をやっていたのだろうか。執行部までを努めながら、私は内向きな組織ゲーム「最高のオママゴト」をしていただけなのか。

社会人になって思ったこと

会社という組織はとても上手く出来ている。1つの問題を解決すれば、次にそれよりもちょっと大きな問題が降ってくる。それらの問題を解決し続けていけば、自分は成長する、給与も上がる、やりがいも高まる。そのまま主観に没頭して行けば、楽しい人生を歩むことが出来る。

数千万人の大人を、大きな反乱も起こさせず、おとなしく経済成長の原動力として(表現が悪いが)働かせ続けるには非常に良く出来ていると思うし、人間がその過程で紛れもない幸福を感じている。それに満足していけないことは無い。エネルギーのある人も、怠慢な人も、どんな人であっても、総和的には経済における価値生産につながっている。最高では無いが優秀な社会構造と素直に思う。

その仕組みの中でも一部の人間は自問自答している。「これが自分がなりたかった、目指していた社会人か」と。別に答えは「イエス」でも「ノー」でも良い。その人の人生に誰も責任は取れない。私は感じている。「イエス」とは言い切れない自分を。だからこれは個人の納得感の問題だ。

繰り返す。個人の人生をどのように使うかは自由。しかし、もう一度気づいた以上、自分はこの論点から眼をつぶることは出来ても避けることはできない。若者であることをやめ、責任を次の若者に投げることも出来る。ただ、それは果たして自分が生きたい生き方なのだろうか。

アイセック時代に描いた高尚なビジョン。アイセック時代に大人に見せれば、「理想論に過ぎない」と言われ「もっと地に足をつけろ」と言われる。でも社会に出ればどうか。多くの人は、理想を描こうともしないし、描いたとしても、それは便宜的な理想として、本気で達成するつもりは初めから無い”理想”だ。

社会人になれば、組織人になれば、余計な事を覚える。人としての行動原理が変わる。ピュアな思いで動けなくなる。志はいつしか、感情の無い定量指標へと置き換わり、いつしかKPIを高めることに自分のミッションはすり替わる。組織の力学の中で、多くの個人の志はいずれ消えて無くなる。

それはビジネスとしては正しい。事業を成長させなければ、社会的インパクトは無い。ソーシャルインパクトを本気で考える経営者ほど、貪欲にクリティカルに事業成長を考えている。大義だけを掲げて事業成長させられない経営者は経営者失格だ。だが、目的が手段に飲み込まれ、志を失っても終了だ。

会社組織としては迷いなく事業を中心に組み立てるべきだが、個人の人生としてこのバランスを取り続けることは難しい。

2020年、どう生きるか

今回を総括すると「自分の生き方について再度悩みが生じた」ということなる。ぶっちゃけ悩むことこそ人生だし、悩まない人生なんてつまらないし、その点はポジティブだけれど、悩み続けても仕方なくて。結局行動でしか悩みが解決しないことも分かっている。

「で、何する?」「んなこと考えるより、少しでもお金生み出したほうが良い」という自分の声が聞こえる。”仰る通り”だ。反論はできない。結局はそうだ。動機や意識に、問題の原因を求めるのは愚かである。最期はどれだけアクションを続けたか、が直接的に結果になる。動機を保てないならば保てる仕組みを作るべきだ。

このままの自分も日本も社会も若者もヤバい、さあどうする。

結論、直近戦う領域、やることは大きく変わらない、とは思う。選択肢そのものが”銀の弾丸”になることは無い。素敵な絵を描き続けても仕方なくて、中身を詰める工程が無いと、絵は実物にはならない。中身を詰める工程に派手さはないし、自分が意味があると思うことを考え続け、地道に必要なことをやり続けるだけ。

でも、それが十分とも決して思えない。きっともっと周囲を巻き込むべきだし、自分に出来ることを増やしていくべきだし、意見や考えをどんどんと発信していくべき。領域は変わらなくても、やり方や取り組む姿勢をもっと変えていくべき。

5-10年単位を本気でベットしないと、リターンは産めないよね、と思う。自分が短期的な変化を求めてしまうのは「要するに捨てることが怖く」「捨てる覚悟がない」ということなのだと。後輩に「覚悟は捨てた量に比例する」などと、尊敬する人の受け売りを自分が出来ているかの如く話していた過去が恥ずかしくなる。

幼少から自分にとって最大の恐怖は「死ぬこと」から今も変わっていなくて、歳を重ねるとは「緩やかな死」でもあって、自分にとって最も怖いのは時間を失うことである。大きな時間が何の結果にもつながらずに失うことに対して、大きな恐怖・抵抗があるように思う。

だから、何の成果も無く時間を失っても良いと思える「強い思い」がなければベット出来ない。そう思って、動機に解決策を求めてきたけど、恐らくそんな「強い思い」は幻想で、少なくとも「ベットするからこそ産まれるもの」なのではないか。そう思うようになった。

だから、今の自分に必要なのは、手段にあれこれするのではなく、決めたことに覚悟を決めてベットすることだ。選択ではなく決断。2020年はもう始まる。

最後に何の脈絡もないですが、最近観たシャイニングの続編「ドクター・スリープ」でも使われていた両作のED曲「Midnight The Stars And You」で締めておきます。エンディングっぽい、いい感じです。