既に完成された幸福と不純物 | ぬるっとした幸福論

一年間で最も散歩に適した季節の到来。今日の最高気温は20℃であることを知り、上着を持たずに出かけてみようと、私の心は冒険気分になる。都内の海の見える公園で約束までの時間を潰していると、30代前半くらいのお父さんが、まだまだ背丈の小さい子供とサッカーをしている姿が目に入る。

ボールを上から足でおさえるんじゃなくて、足の内側でボールを軽く止めてあげるんだよ

と、お父さんは説明する。ボールのトラップの仕方を教えているようだ。世のお父さんはみんなサッカーが出来なくてはいけないな、と思うくらいにはサッカーは子供にとって人気なスポーツだ。

その脇では、ベンチに腰掛けた女性がそんな二人の姿を眺めている。きっとこの3人は家族なのだなと私は思う。両親が自分たちの子供を見るその目には、愛と優しさ、そして子供の輝かしい未来に対する期待が映っている。 続きを読む →

「お前の人生はつまらない」による時間差攻撃とその対応について

社会人になって、漫画を大人買いする「癖」がついている。大半はブックオフで1冊100円になった、過去の流行り物(これは矛盾している)を読む。スタートからゴールまで一直線でノンストップで読み切れるのが心地よい。

それからは、現在も連載継続中の新しい漫画も読むようになった。今どきの漫画はテーマも多様で、どの作品も絵が上手い。最近の漫画はすこぶる面白い。

それで昨日。しばらくは買っていなかったのだが、ここのところ集中している日々が続き、それが落ち着いたのもあってか、昨日は無性に漫画が読みたくなった。

Amazonの欲しい物リストに読みたいと思った漫画はアドしている。過去作となれば、Primeで安く全巻セットなどが買えるのであるが、新作は定価なのでPrimeで買うメリットも特になく、その場で読めるKindleで買ってしまうことが多い。

色々迷った挙げ句、昨日は以下の作品を選んだ。

『ブルーピリオド』は、勉強ができる優等生である高校生の主人公が、藝大入試に挑戦するスポ(芸術)根漫画だ。今どきの20代(つまり自分みたいな人)には刺さるんじゃないか。

  • 天才ではない
  • やりたいことも分からない
  • 人の期待に応えるのは得意で八方美人
  • 社会的にはある程度のポジションを築いておきたい

みたいな、積極的なんだが消極的なんだかよく分からない理由ながら「自分は割とやれている方だと思うんだが」な人生を歩んできた人にとっては、主人公の感情・思考に上手く入り込めると思う。

『ブルーピリオド』を読んで感じたのは、その人が創り出すアウトプットには、その人の人生そのものが投影されるということ。逆に言えば、自分の人生にインプットされていない、つまり無いものはアウトプットにならない、ということでもある。

「お前の人生はつまらない」

映画大学に通っていた高校時代の友人から聞いた話であるが、学校長は入学式で生徒に対してこんなことを言っていたらしい。

お前たちの創る映画がつまらないのは、お前たちの人生がつまらないからだ!!!

友人から初めてその話を聞いたときは、大学1年生ごろだった。その時は「映画大学の学校長らしく変わった人もいるもんだ」とその程度に思っていた。別に映画を創るわけでもない自分には関係ないことだと。

でも、今はその言葉が痛いほどに響く。映画を創っている訳でなくとも、自分から創作されるもの全てに当てはまることだ。今は私から創作される全てがつまらないように思える。紡ぎ出される言葉も、思考でさえも。それは詰まるところ「自分の人生がつまらない」ことが根源的な理由だ。

アウトプットは、インプットから生じるのが原則だ。

創作される作品とは「映画」でも「小説」でも「絵画」でも「事業」でも「言葉」でも「思考」さえも、その人の人生におけるインプットからアウトプットされる。

アウトプットがつまらないならば、インプットがつまらない。つまり「自分自身の人生がつまらない」ということ。資源ベース論的に考えれば「VRIOな人生」を生きている人間によるアウトプットは面白い。とんでもないダイナミックケイパビリティ(インプットをアウトプットに転換する能力)を持っているならば、また話は別だろうが。基本的には、インプットに大きく制約を受ける。

生まれ持っての所与のステータス・環境を別にして、「時間」と「お金」という人間に共通のリソースをどのように使ったかの結果が人生となる。そして、その使い方でその人間のことの多くが分かるのだと思い始めた。もっとも価値観や哲学が色濃く出るのが、そのリソース配分だと思う。そしてその人生も新たなリソースとして、アウトプットに活用される。

ちなみに、経営学においては、ポジショニング論とケイパビリティ論の対照的な論理が展開される。人生においてポジショニング論は世の中的な成功には大いに役に立つが、人生の面白さとか、自分がハッピーになるかといった話にはあまり役に立たないと思っている。

ネロ、お前さんはカモだ。金にだまされちゃいけない。あれは単なる数字だ。自立ってのは心の問題なのさ。

-Taleb, Nassim Nicholas

最終的に環境・状況を判断するのは、内面に委ねられているからである。

私にとっての「面白い人生」とは

人生の細かい客観的な生き方、つまり何歳ごろにこんな仕事に就いて、こんなをすると面白い、とかそういうのはきっとどうだって良い。人生というA4掛線無しの白紙に、型を決めこもうとする時点でつまらない。

手段に拘るべきではない。手段を問の解として求めるべきではない。手段の目的化は大抵が惨めな結果になる。では、目的は何か?

それは「感情」「思考」にあると私は思う。「怒り」や「悲しみ」「喜び」「恐怖」「葛藤」や「狂気」「愛情」「友情」など、人間の感情・感覚・思考は挙げればキリがない。

私にとっての面白い人生とは、その豊かな感情をどれだけ様々な切り口で、自分自身が経験しているか、だと思う。どれだけ揺れたか、どれだけ確信したか、感情の質と量、深さ、そしてそれらの組み合わせを様々な経験を通じて味わったか。そして「なぜお前は今この瞬間この場にいるのか」という問に対する答えに人生は集約される。

面白い人生を生きている人は、人間の底知れぬ可能性を改めて感じさせてくれる。人間にはそういう「人生」があるのだと、できるのだと。

そんなことを思って以来、過去の偉人たちへのリスペクトが止まらない。なぜその悟りの境地に達した上で「生きたのか」または「死んだのか」は、人間の人生というものの可能性を広げてきた。

現代は過去と比較してインスタントに様々な経験が出来るようになっているが、それによって自分の人生が面白いものになっているかは、また別の問題だろう。

さて、私は何をするのか

最近は映画や小説好きが転じて、物語を自分でも書いてみるようになった。改めて思えば、小学生時代は時間も忘れて毎日マンガを書いていたから、驚くに当たらない。創作は自分の根源的な欲求なのだと思う。

しかし先述の通り、自分の筆から出る言葉、そこから形作られる物語は驚くほどにつまらない。もちろん技術的な理由もある、経験を積めば変わっていく部分も大いにあるだろう。しかし本質はそこではない。

創作における天井は「自分自身の人生」だ。自分自身の人生から見いだされる答え、信念、そして狂気が全て。それが目的になる。手段はそれらに従うのみ。手段を磨いても、目的が無いモノに面白さは生じ得ない。目的を身を持って知っているからこそ、それを創作物にのせることが出来る。

今後、わざわざ人生を面白くしようと、意図的に何か奇をてらったことをするつもりはない。ただ「既存(これまで通り)」よりは「新規(今までとは違う)」を、「観客(Watcher)」よりは「演者(Actor)」を、「論理(手段)」よりも「感性(目的)」を、そして「やらない」よりは「やる」を選ぶことにしよう。