泥沼ルサンチマン闘争を避ける

社会的な弱者となった人間は、ルサンチマンによって自己の世界観を作り変えて内的世界の価値基準の転覆を図る。誰も「現実的に」傷つけない行為という意味では害は無いと思うのだが、自己自身の歪みによって自分が苦しむという話は大いにあることだと思う。

例えば、内的世界で復讐を果たしたものの、それが自己の内部にある「憤り・怨恨・憎悪」的なネガティブな感情に基づいて行われたことを認知すると、自分で自分が嫌になってくる。

なんて自分は小さな人間なんだ・・・!

と。

なので「自分こそが正しく世界を見ているんだ!」などと思っていたら、実は単に自分にとって都合の良いように世界を歪めて見ようとしていたに過ぎなかった、などと一度知ってしまえば、中々に厄介なことになる。

最も厄介なのは、ルサンチマンに基づく“メタ思考によるマウンティングの無限ループ”である。

まず、ベースとなる内容を考えよう。

たとえば、

「お金があれば人間は幸福である」

という社会的な価値基準があるとする。

これに対して弱者(=お金の無い人間)は、

「お金の無いことこそ幸福である」

などと、自身の内面で価値転倒を図る。

こういった活動を見ている他者は一歩退いて

「弱者が内的に価値転倒を図っているのだな、くだらない」

と考える。

しかし、この思考もある価値基準の中で弱者となる自己のルサンチマンによって発せられ得る。そしてこれは永遠に続く。

[{(「xxx」である自分は相手より凄い)と思っている相手より自分は凄い}と思っている相手より自分は凄い]と思っている相手より自分は凄い・・・

のようなメタ思考によるマウントを取り続ける。しかし、詰まるところこの思考はどこまで行こうがルサンチマンに基づいた思考でしかない。

要するにこの枠組みで思考する限り「あなたがやっていることは、あなたが嫌っている人がやっていることと同じに過ぎないんだよ」ということである。

もし、ルサンチマン的な感情を自身が保持していることに対して、自分自身が嫌悪するならば(そんな高潔であろうとすることをまず止められると良いのであるが)別のアクションによって枠組みから抜ける必要がある。

それが「忘却」である。

確かに忘却という行為を取ること自体は、その動機はルサンチマンに基づくのかもしれない。(=ルサンチマンのパラダイムでマウントを取っている人間よりも自分は優れている=>「忘れたもん勝ち」という価値基準に転倒させている)が、一度忘れてしまえば問題になることはない。なぜなら「そんなことを知ることは無いから」からだ。知らないから苦しみからは抜けられる。

他者からは何かを言われるかもしれないが、自己が忘却を維持し続けている間は、ルサンチマン的な動機で行動していることはない、ということになる。(そして自分はその事も知らない)もし自己自身の歪みによって自分が苦しんでいるのであれば論理的な解法は忘却しかあり得ない。いくら考えても先のメタループからは脱出できない。

「忘却」と同様のアプローチとして「無知」があるように思う。知ることによってわざわざ忘れる必要があるのならば、知らなくて良いことは初めから知らなくて良い。

「忘却」と「無知」のマネジメントが安定した精神状態の維持に必要な行為だという風に理解した。

SFの社会実装による可能性

須原一秀氏が『“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組』で語ったように、人間社会の中で最高の体系的な1つの思想を打ち立てることが不可能であることが歴史によって証明されたとするならば、場当たり的問題解決によるインクリメンタルな成長を続けていくしかない。

人類の中で思想・哲学的な議論は繰り返されており、抑えるべき観点などはある程度出ており、残るは各論なのではないか。瓶の中に既に大きな石は敷き詰められており、石同士の小さな隙間を埋めるような議論しか残っていないのでは無いか。

既に武器はあらかた揃えられており、現実側の変化に応じて、必要な武器を持ち出していくという構造になっているように思われる。武器自体が増える余地は少ない。大きな武器であれば尚更。だから、現実世界が変化を続ける限り、議論は巻き起こるのであるが、大抵のことは決着はついている。

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私の思想と私の行動は一致しなければならないか

2020年に入ってから、自分の人生についての考え方が大きく変化してきたが、ここ半年くらいの間は、前向きで希望的な要素が少ない考え方でスタックしており、感情的にもあまり晴れにくいような時間が続いていた。(もちろんここには外出自粛などによるライフスタイルの変化も重なっていたように思う)

しかし、つい先日に頂いた寸言によって、自身の状態に対する自己の認識が変わった。私は不可抗力的に鬱屈しているのではなかった。私は「趣味」で鬱屈しているのだ。

だから「スタックから抜け出す」という表現は適切ではない。なぜなら誰も私もスタックさせようとしていないし、構造的にスタックせざるを得ないような状況にもなっていない。私はいつでも自らの意志でその拘束を解くことが出来る。他でも無い「私自身の意志」が私を捉えている。要するに好きでやっている訳だ。

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論理感覚

「何も無い」で満たされた無限の空間を考える。いや、無限である空間を「満たす」という言葉自体矛盾しているのかもしれないが。

私たちがその空間に突如として放り込まれたとする。さあ、私たちはどこに行くだろう。いや、まずこの問いの設定が誤っているだろうか。正しくは

「どこに行けるだろう?」

であるだろう。

宇宙空間に放り出された人間は、エンジンなどの推進力無しに移動することは出来ない。どんなに頑張って泳ごうとしても抵抗のその無い空間では、その体はただ慣性に従うだけになる。だから、何も持たずにただ放り出された人間は、どんなに頑張ろうが藻掻こうが、どこにも行くことは出来ない。少しだって前に進むことさえ出来ない。

私は人間がその頭に持つ「論理の世界」をそのように捉える。

では、その中で前に進むためにはどうすればよいのか?

それは

「足場を作ること」

になるだろう。確かな土台を足場に持ち、それを蹴って前に進んでいく。この土台が無ければ、私たちは虚空をただ漂い続けるしかない。

古来多くの人々が「確かなもの」を求めて頭を悩ませてきた。「神」だとか「考える私」だとか「存在」だとか。

何も無い虚空の中に考える対象となる材料自体そう多くは無いから、この無限に広がる空間という世界に求めるか、あとはその空間に浮く自己の内部に求めるか、あとはそれらの切り取り方次第だ。それらを地盤としてその上に建物を作る。

それらの建物は論理で組み立てられる。堅強な論理で組み立てられた建物は叩いてもビクともしないし、寄せ集めたような論理はちょっとした風で吹き飛んでしまう。

しかし、どんなに堅強な論理もその足場を失えば直ちに転倒し、虚空を漂う巨大なデブリと化す。我々全てが内包される虚空のルールには誰も逆らえない。

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「小さな粒子」で満たされた、ある空間を考える。我々のある世界において、その小さな粒子はどのように存在するか。

①遍在する
②偏在する

答えは「②偏在する」である。

私たちは時に論理的にあり得るパターンを網羅的に検討してしまう。空間を1cmの立方体に等分し、それぞれの中心に粒子が存在すると想定することがある。どこから眺めても美しく整理された空間を想像する。

それを網羅と呼び、可能性と呼び、犬の道と呼ぶ。

本当はそれではいけない。人の世界に遍在はあり得ない。現実では面白いほどに偏る。人間臭く偏る。

それを仮説と呼び、蓋然性と呼び、直観と呼ぶ。

バベルの図書館には、10の1,834,097乗の蔵書があるが、その中でも意味を成す書物はほんの一握りである。意味を成す本・成さない本は、単語と文法のルールによって規則が成立しその時点で偏る。何より私たちにはそれを読めば、それが意味を成す本であることを即座に理解する。

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寸分も狂いのない等間隔のマスを敷き詰めたような緻密な論理を組む人がいる。1歩1歩段を昇り降りをしていき、誤れば1つ下がる、正しければ1歩進む。前提が崩れれば3歩下がるが、横にずれてまた1歩ずつ前に進む。

命を持つように力強く歪な形をした論理を組む人がいる。その中に入ることを許さない歪んだ大きな建造物を自らの中に持ち、周囲を自らの重力で引き込んでいく。いきなり斜めに10歩進んだり、真横に5歩進んだり、時には黙り込みさえする。

人と話せば、その人の論理がわかる。どんな建物を建てているかが見える。立ち入り禁止の特大カテドラルをその内に持つ人もいれば、小さなお家を何軒かお持ちでその中によく招待してくれる人もいる。

一方で、建物を建てない人もいる。自分で建てていないのに、なぜか建てる知識は人より持っていて、その知識で人の建物を分解してその中に押し入ってきたりすることもあるし、一方で建築に的確な助言をくれることもある。

論理には、人がよく見えると思うようになった。

Outsiderの生きる道 | 前進する議論 | 上達に向けた意識のコントロール

気づけば、2020年も残り3ヶ月。コロナショックが始まってから半年以上が経過している。自分の認識する範囲では、コロナに対する意識的な緊張感は見えなくなり、皆が習慣によってWithコロナ的な行動を続けているだけのようなフェーズに入ったと見えている。つまり「なんかね、疲れたし、割と慣れちゃった」ということだと思う。人間恐るべし。

私は初めからそんな外に出てワイワイするようなタイプでも無かったのだが、先日の外出自粛やリモートワーク定着により、一層インプットする時間が増えた。知的好奇心とは面白いもので「既知が次の未知を生み出す」のであり、知れば知るほどに「あれも知らない、これも知らない」と知の無限性に吸い込まれていくのだ。しばらくこの深淵からは逃れられそうにない。

現在60冊位が積読されており、全部積み上げると自分の身長くらいにはなる。本は読んでも良し、投げても良し、重りにしても良し、盾にしても良し、燃料にしても良し。本は汎用性が高いのだよ。

そんな最近の雑感を綴る。

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映画『TENET』に惨敗しました

待ちに待ったクリストファー・ノーランの新作『TENET』が公開されている。

『Inception』『Memento』『Intersteller』などに代表されるようにノーラン監督は構成を非常に作り込んだ映画を創るのが特徴である。その他、バットマンシリーズも彼の作品であり、非常に高い評価の作品を作り続けているヒットメーカーである。

今回の『TENET』も、SFでよく扱われるテーマの1つである「時間」を軸に展開される「ザ・SF映画」ということはTrailerからもよく分かり、非常に期待が高まっていた。「絶対面白い!期待!」という気持ちで臨んだ鑑賞。

しかし、観終わっての感想はこれに尽きた。

「ごめんノーラン、全然分かんない!!!」

近年稀に見る難解映画だった。。。

『マルホランド・ドライブ』観た後みたいな感じ。途中から完全に置いてかれ、終わった後も「???」しかない状態。みんなはどうだったんだろう、と思ってFilmarksの皆さんのコメントも観てみると、どうやらみんなそんな感じだったようだ。

中には「意味全然分からなかったけど、すごい面白かった!!」という不思議なコメントも散見されて、レビュー欄が非常にカオスしていた。

そんな『TENET』について、感想と哲学っぽいのに絡めて書いてみる。

1回観ただけであり、ギミックとしては面白いのであるがテーマも受け取れなかったため解説を読む気も起きず、理解度20%の状態の人が書いている感想である、ということを予めお断りさせていただく。

※内容は一部ネタバレを含みます。

『TENET』の評価ポイント

これは、SF映画に求められる大きな役割をしっかりと果たしていた。つまり「IF世界の具現化」である。小説含め、SFの面白さの1つは「とあるIF(=もし)のアイデアによって構築された空想の世界からもたらされる知的な刺戟」であると私は考えている。

『Inception』であれば「もし人の夢に入れたら?」だし、『高い城の男』であれば「もし第二次大戦で枢軸国側が勝利していたら?」である。そういったIFを用いた世界を構築するのがSFの役割である。

『TENET』におけるコアのIFアイデアは「もし”時間の矢”を逆転できたら?」である。

一方向に進む時間を逆転させることが出来る世界を舞台に物語が展開する。そのため、人が巻き戻し的に動いているし、時間を遡ってタイムマシン的に過去に行くことが出来る。

私の中での『TENET』の評価点は「この時間の矢が逆転した世界を映像化・物語化」したことにあると思う。巻き戻し世界なんて小説じゃ表現し得ない、というかつまらない。人が巻き戻しに歩いているなんて文章で書いた所で何の衝撃も面白みもないだろう。これを映画の世界の中で実現し映像化したことによって、観る人の知的好奇心を刺激している。

なんで『TENET』は分かりにくいのか?

そんな評価点がありつつ、一方で難易度が高いことをやろうとしているので、ややこしくなってしまっているとも言えるだろう。映画としてわかりにくくなっている要素がいくつかある。というか意図的にわかりにくくしている、ということも充分に考えられるのであるが。

①物語上の「主題」と「目的」が分かりにくい

映画で物語が進行していく上で、非常な重要なポイントが2つある。

1つは「主題」の存在。例えば、Interstellerなら「親子の愛」だし、Inceptionなら「過去との対峙」「トラウマの克服」など。この主題は「映画で伝えたいこと」、つまりは作り手側のメッセージとも呼べる。

そしてもう1つがストーリー上の「目的」の存在。この目的によって具体的に物語が進行していく。Interstellerなら「地球から移住できる惑星の発見」だし、Inceptionなら「アイデアを植え付けてクライアントのライバル会社を潰すこと」である。

これらの軸が明確であるからこそ、鑑賞者は2時間の間、迷子になることがない。しかしTENETではこれが非常に分かりにくい。(というか今でも分かっていない)

デヴィッド・ワシントンとロバート・パティンソンの友情・・・?うーん、しっくりこない。そうならば、もっと中盤で友情描写とかあるはず。。。

未来も過去も自分で変えられるぜ!的なこと・・・?うーん、特にそんな話、出てこなかったよなあ。。。エリザベス・デビッキも最後感情に任せて殺してしまうのもなんか後味悪い。。。

ここが分からないので「なんで今戦ってるんだっけ?」「なんのために戦っているんだっけ?」「誰と誰がどういう対立をしているんだっけ?」が途中で分からなくなって、完全迷子。

②世界観設定の説明が少ない

「時間」という奥深いテーマを扱っている割に説明が非常に少ない。初めにハリポタのフラー・デラクールでお馴染みのクレマンス・ポエジーが説明してくれるのであるが

「エントロピーを減少させるので”時間の矢”が反転して過去に進める」

ということしか分からない。細かい発動条件や制約などが分からないので、「え、何でもありなん?!」みたいな印象になっている。

まあ、ここは仕方がないなと思っていて、詳しく説明すれば科学的な矛盾や反論の余地が大きくなってしまうので、情報を出さないことによって、想像で補ってもらうのがSFとしては正解であるなと。このテーマでリアリティとイマジナリーのバランスを取るためには、仕方が無いかもしれない。

時間を反転させる、あの回る基地みたいなのもよくわからんかったし、戦闘シーンも何が起きているのか全然わからないし、あれここで呼吸器つけなくていいんだっけ、みたいなのも途中からよく分からなくなった。

非常に余白(=鑑賞者の想像)に任せる所が多い映画である。

③映画という媒体の特性による制約

映画は、元々その成り立ちでは「現実を映像としてあるがままに切り取る」ということを志向していたが、一方で、切り取る以上は、切り取る主体による恣意性から逃れることが出来ない。次第に、その恣意性の方が作品において重要になり、クリエイターの表現の手段として普及していった。

この辺りは『映画とは何か』に詳しい。

映画はどう作ろうが、そこには必ず作り手の意志が反映されてしまう。そして、その意志は映画内では明言されることは基本的にはない。その視点によって、受け手に感じ取ってもらわなければいけない。

今回のTENETでは、時間というテーマを扱ったことにより「映されている映像が誰の視点であるか」という点で非常にややこしくなる。

TENETにおける「時間の矢」の反転には「人間の主観・認識」が関わっていることが分かる。なぜならば同じ空間に順再生と逆再生の両方の人間が同時に存在しているからである。ある人にとっては、順再生の世界に見えているし、ある人にとっては逆再生の世界に見えている。

こうなった際に「カメラは順・逆どちらの視点に立つのか?」が問題になる。この表現が非常に難しい。空間的には2人の人間を同時に映すことが出来ても、時間の方向性は順・逆のどちらかを選ぶしか無い。

そんな結果、戦闘シーンでは順再生と逆再生が入り混じらせるという「同じ空間に対して主観は順・逆切り替え」という撮り方を行っている。おかげで何が起きているのかがややこしい。

映画において、カメラの視点を「私は今こちらの主観で撮っています」ということは直接伝えることは出来ず、あくまで示すことしか出来ない。その結果、示された内容の解釈は全て受け手に委ねられているのだが、ルールの説明も少ないので、委ねられても正直受け止めきれだけの武器が無いのである。。。

「シュレーディンガーの猫」をコアに使った『ミスター・ノーバディ』では、鑑賞者を置いていかないようにジャレッド・レトが丁寧に解説してくれたのに・・・

④慣れ親しむ時間感覚と反するので直観的な理解が難しい

丁度最近自分の中でも時間観が崩壊してきていた所であったので、TENETの時間観にも柔軟に「なるほど」と理解できるところがあった。そういう意味では非常に面白かったのだが、やはり認知の仕方として慣れていないので直観的に何が起きているのかが理解しにくい。

カントは『純粋理性批判』で、人間の認識は必ず「時間・空間のフィルター」を通して行われると言う。私たちが認識しているものは対象そのもの(=物自体)ではなく、あくまでフィルターを経たあとの対象である、ということを理解しなければいけない。我々はこのフィルターを介さずに、直接的に物自体に行き着くことが出来ない。

空間は(x, y, z)のような座標的に捉えられ、人間は前後左右上下の好きな方向に進むことが出来る。一方で時間についてはそうではなく、我々が体感的に知っているように未来方向にのみ進み、過去方向には進まない。この時間の一方向性は、物理学の言葉で「時間の矢」と呼ばれる。

なぜ時間は一方向にしか進めないのか。これは専門家ではないので、大まかな理解であるが、熱力学第二法則によって示されている「断熱された系のエントロピーが減ることはない」ことが時間の不可逆性につながると説明されている。

TENETでは、その本来減らないはずのエントロピーを減少させることによって時間の矢を逆向きに出来る、という説明が序盤でなされている。一方で空間についてはそのままであり、そのため時間だけが巻き戻っている人が同じように空間内に存在している。

しかし、反転するのは世界全体ではなく、特定の処置を施した一部の人間・対象になるので、働きかけている対象は人間の認識側に行っているということになる・・?

地球は物理的には1つであるが、実は我々の世界は「重なり」で出来ている。70億人いれば、70億人がそれぞれ認識する世界を生きており、物理的な舞台は共有しているものの1つとして同じ世界は存在していない。「存在するとは知覚されることである」というように、認識なくして世界の存在はあり得ず、主観の不在で物自体を知ることも出来ず、全ては個々の主観によって見え方が歪んでいる。

それぞれの主観が世界を認識する際に、時間と空間のフィルターがかかるとすれば、エントロピーの減少は物理法則に対する働きかけであって、人間の認識に対する働きかけではないので、おそらく認識時にかかる時間フィルター部分が逆転させているということになる。

しかし、同じ空間を順再生と逆再生のフィルターをもった人間が共存しているということは、何らかの個々人の認識への働きかけ、もしくはエントロピーの減少範囲の制限をかけなければ実現が出来ないはずである。(もし制限をかけなければ全ての人間が時間方向の逆転を認識しなければならないだろう)

時間に空間的範囲が存在するのか?というのは、もはや「時間とは何か?」という問いそのものといって良いだろう。アインシュタインによる特殊相対性理論では「時間は観測者ごとに存在する」という結論であり、これが正しければ時間は主観的であることになる。そうなるとエントロピーの減少は我々の主観に対して影響を及ぼす、ということになる・・・・?

ああ、ややこしい!!!

SFである以上、ここに厳密性を求めても仕方がないということは理解している。ただ物理学的な考証は充分に行われているだろうとして、哲学的な考証がどの程度行われているのか、というのは少し怪しい。

とにかく、普段から時間と空間のフィルターの存在を意識することは殆ど無いし、時間だけが逆再生され、それが順再生と空間的に共存している世界も、一方向に流れる世界に慣れ親しんできた我々としては理解が難しい。

色々考えさせるという意味で面白い『TENET』

「時間」というコアアイデアとしては、めっちゃ考えさせられたという意味で、めっちゃハマっているのかもしれない。ただ、個人的には理解できない映画に高い評価をするのは抵抗がある。分かる人に分かれば良い、というセグメンテーションをはっきりさせたロックな作品である、という所は良いのだけれど、ハリウッド映画においては受け手に対して親切設計する努力義務はあると思っているので。

テーマもよく分からないという意味では、映画としての評価は自分の中では高くないけれど、SF映画としてかなり野心的な挑戦をしている作品としては非常に好感が持てる。

ぜひ皆様にも鑑賞後に「???」が浮かぶ覚悟で観ていただきたい。

逃れられぬ論点 | 助けて!コリン・ウィルソン

『アウトサイダー』でお馴染みのコリン・ウィルソン。前に考えた時に、なぜ哲学者や理性的に物事を考える彼が、オカルトといった科学的ではないものに興味を持つのかに関心があった。

今日も私は論理と戯れ、哲学者はオカルトする

そこで彼のオカルト系作品の代表作『オカルト』を読んで気になった言葉をツッコミ、考えたことと共にメモっていくとする。本作の内容はオカルト事例の羅列だが、彼自身の主張は非常にシンプル。「人間の未来は意識の拡張にある」ということ。

色んな思想家が人生をかけて考えた結果としてたどり着くエリアは非常に共通しているような感覚で、まあ、自分が今のうちにそこに気がつくことができたのは幸運のようで、まあ逆にむしろ不幸かもしれない。救いはあまりないのでね。 続きを読む →

思考処理の速度改善とメモリ節約

人間の脳もスペックが決まっており、一度に処理が出来る量、そして1日に処理ができる量(≒認知資源)が決まっているように思われる。一度に複数のことを考えろと言われると処理負荷かかりすぎて頭が真っ白になるし、夜になれば朝と比べれば全然頭が回らなくなる。そんな制約の中で思考を行っている。

そこで思考の効率性を上げて、メモリの無駄遣いを無くすために主に行っているのが、①ライブラリ化、②アナロジー適用、③モジュール化である。これらを上手く利用することで、思考の効率性が高まり、また物事の学習スピードを向上させることが出来るように思う。

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文章と詩について

過去に読んだ本を思い出す時に、まず何が思い出されるか。きっとどの本を思い出すにも、センテンスや文字ではなく、イメージがまず出てくると思う。本を文字として記憶するのではなく、イメージとして記憶している。

このイメージは、本の内容についてのイメージであるのか、本を読んでいた状況についてのイメージであるのか。両方あるような気はしている。文字情報は直観を用いて引っ張ってこれるようにイメージへ変換されている。

本を読んでいる時に考え事をすると、全然内容が頭に入っていないのに、ページだけ進んでいることが結構ある。大体こうなるときって本の内容が面白くない場合なのだが、でも意外と内容というか、だいたいこんなこと書いていたかなあというイメージの部分は残っていたりする。一方で文字の部分の記憶は皆無。

これはおそらく、文章、単語、文字自体にイメージが結び付けられている、ということなのではないか。文章を読むときは、おそらく2つの目線を持って読んでいる。

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宝くじが当たる”確率”は2分の1である

日頃から「確率」は不思議なものだなと思う。

確率(かくりつ、英: probability)とは、偶然起こる現象の、現象全てに対する割合の事である。 起こりやすさを数値で表した指標として使われる。 確率の定義は、統計的確率、数学的確率・理論的確率・古典的確率(意味はどれも同じ)、公理的確率の3つがある。 どのような現象でも確率をもつとはいえない。

- Wikipedia「確率」

成功者の中には、確率の考え方を使いこなしてきたという人は結構多いのではないだろうか。存在する複数の選択肢について期待値を計算・評価し、最も高い期待値を持つ選択肢を選ぶ。頭の良い人はそうやって生きている部分が多いのではないかと思っている。

しかし、最近になって確率に対する感覚的な違和感を感じるようになった。

なんというか、

あれ、確率ってなんだっけ?

みたいな感覚だ。

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