⑧私の社会参加の形にて、自身の知的好奇心が働く対象を整理した。
内容を纏めると、軸は①当事者性 × ②新規性であった。
①当事者性は下記2つ。②新規性は下記1,2について過去に無いアプローチ。
1. 人間の生きることの辛さ(生きづらさ)の解消
2. 人間の能力拡張(これは①を叶えるための手段+純粋な興味)
⑨ではこれらを具体的にどのように形にしていくことが出来るか、ということを考えていく。
⑧私の社会参加の形にて、自身の知的好奇心が働く対象を整理した。
内容を纏めると、軸は①当事者性 × ②新規性であった。
①当事者性は下記2つ。②新規性は下記1,2について過去に無いアプローチ。
1. 人間の生きることの辛さ(生きづらさ)の解消
2. 人間の能力拡張(これは①を叶えるための手段+純粋な興味)
⑨ではこれらを具体的にどのように形にしていくことが出来るか、ということを考えていく。
「自己」と「他者」を経て、私は漸く「社会」にたどり着いた。②で述べたように、「社会」パートでは下記のようなことを考えている。
対社会では、②他者よりも更に広範に意図しない存在も含めた社会・世界と、どのように関わっていくのかを考える。人間が生きていく以上、社会との関わりを断つことは不可能である。社会に対して、どのような動機で関わるのか、どういう関わり方をするのか、そして何をするのか、を考えていく。
社会とは、ある種人間を捉える視点の1つであって、関わろうとしなくとも人間は社会に組み込まれている。私は日本社会の一員だろうし、地球社会の一員である。そこに関わる意図は関係ない。また人間が生きていく上では生活資源の調達が必要であり、そういう意味でも社会と関わらざるを得ない。
また私の方から能動的に社会に働きかける事もできる。行動を通じて、社会を望む方向性へ形成していくことが出来る。その能力を人は保有している。
ここでの問いは2つだ。 続きを読む →
対自己に対する考察を終えたところで(実際は対他者、対社会に踏み込んでいる所も所々あったのだが)、そろそろ対他者に入っていきたい。
振り返っておくと、対他者は顔の見えている人との関わりについて書く。
②対他者では、社会のようなアノニマスな存在ではなく、自分が個別に認識している他者とどのように関わっていくのかを考える。人間同士の関係性をどのように捉え、それを人生においてどのように位置づけていくのか、を改めて整理したい。
今度は、自己の思考について纏めておく。2020年を通じて「思考」という行為に対する考え方も大きく変化した。
初めに思考を自分の中でどのように位置づけているか、について。私は「思考内容は目的化しない」と考えている。思考した内容に自身を従わせることは手段目的化として、あまり良いこととは考えていない。
思考はあくまで「自分の意志や直観に使役させる」ことが大切だと思っている。思考による反逆や革命を許してはならない。思考はあくまでツールだ。
思考によって意志や直観を歪曲させるのは本末転倒である。それは自己という本来的には固有の存在を希薄化させる。個人のユニークネスは意志や直観、本源的な欲求の中にこそ存在しえる。論理は人類共通で用いることが出来る道具なのであって、その道具を使う習熟度は人ごとに異なるにせよ、自己の本質はその中には無い。
ぜひ、④自死考Ⅰを読んでいない方は下記から読んでいただきたい。
自死考Ⅰで述べてきた2つの分類
・分類①「目的 – 手段」
・分類②「死ぬことへのスタンスと自死への障壁」
を踏まえて、自死への周囲からの干渉について考えたい。
自分の人生について触れた所で、きっと誰もが一度は想像してみたことのある「自死」についての考え方に触れておきたい。
ちなみに私が「自殺」ではなく「自死」という言葉を使うのは、自死の方が自殺よりもプレーンであるように感じられるからだ。自殺という言葉には、どこか人為的にネガティブで悲劇的なニュアンスを込められてしまったように感じる。それに比して、自死は単に淡々と「人が自らの意志で死ぬ」という価値判断の無い現象を描いているように感じられる。ここではフラットに検討したいので、それに沿う「自死」という言葉を選択している。一部、自殺という言葉が適すると感じた文脈においては「自殺」という言葉を用いた。
さて、特に2020年は知られた芸能人の自殺が発生し、それに加えてコロナウイルスによる社会不安もあって、自死が例年より話題になったような感がある。(ネガティブなニュースが広がりやすいのは『FACTFULNESS』でも語られたネガティブ効果だ)
初めにこれを書いている私の自死スタンスを示して置きたいのであるが、
前書き部分でも既に述べているが、絶対的な「私」という存在を私は認めない。ある認識者の存在を前提として、まとまった「私」という存在を認めることが出来ると考えている。認識者の存在を「私」の存在の前提とするということは「私」の中身は認識者によって影響を受ける。
故に「私」は認識者との間に現れた「現象」である、と考えるとしっくり来る。素材としての自己と認識者が出会うことによって発生する。
ここでいう「素材としての自己」というのは、それ自体として実態を持つものではなく、他のものと組み合わさることによって初めて実体として存在する「形式」だと考えている。
例えるならば「関数」のような存在である。
y = x + 3
関数は、ある実数が代入されることによって、求めたい値が決まるのであり、それ単体では、単に変数同士の関係性を示す形式に過ぎない。自己それ単体では、代入される変数が決まらない関数のようなもので、そこに認識者が存在することによって、変数に実値が代入され、その代入値に応じた「私」が解として決まるのだ。
前書きを終えて、次に地図としての全体の構成を示しておく。
今回は2021年の始まりということもあり、2020年に行った多量のインプットと、それを材料に行った思考を自分の中で整理した上で、2021年どのように生きていくか、ということに落とし込んでいけると非常に生産的であるなと思っている。
しかし、どのように生きていくかについては、別の形式でのアウトプットを考えているので、今回は断片的に示すまでになっている。
下記の記事でも触れているのであるが、人が考えるべきことは、常に
「私は人生をどのように生きるか?」
この問に集約されると考えている。人生の様々なシーンで浮かんでくる問い、例えば「大学卒業後にどんな仕事に就くか?」といった問いは、「人生をどのように生きるか?」という問に対する各論的な存在となっている。
2020年に考えたことを振り返って書いている。
年末から書いているのだが、書けば書くほどに膨らんでしまい、別の形式のアウトプットも見えてきてしまい、気がつけば2021年の3週目にも突入しているが、まだまだ書けそうな気がしている。
このままだと、私の脳は2020年から年越し出来ないので、一旦断片的なまとまりとして投稿し、一度自分の身体から外部させることにした。結果的に約8万字という飛んでもない量になり、①~⑨でテーマごとに分けている。この断片たちは先日アイデアを得たので、また別の形で統合されたアウトプットとして結実させたい。
※8万字全部を読む人は限られる、というか私だけかも知れない。「面白いところだけ読みたいから目次はよ」というあなたに本題の目次を書いたパートも先に示しておく。
※「総括とか言いながら8万字とか全然まとまってないやん」という声は聞かなかったことにしよう。逃げるなら今の内だ。
最近は「空白」の扱いが大事だなと思っている。
空と白、2人で「空白」だ。
俺らに勝てる奴がいるか、見せてもらおうじゃねえか。– 空(ノーゲーム・ノーライフ)
「空白」もしくは「無」とも言える。「ある」が無いこと。いや「無い」があることか。その性質から非常に厄介であるが、一方で上手にマネジメントすることによって、高い知的生産性を実現する鍵にもなる。 続きを読む →