沈黙は金か?

SNSやメディアでは、世のニュースを議論や批判の種に色んなコメントで賑わう。建設的で共感を集めるコメントには、多くの「いいね」やら「シェア」が集まる。一方で、とにかくディスる、みたいな、単にその種をきっかけにして、自身の感情を吐き出しているだけのようなコメントも集まる。

そんな中で「世の出来事には沈黙するしか無いのではないか」と思っているのが最近である。

この辺り、色んな考え方があるのではないか。

  • 沈黙は存在しないも同然だから「批判」の方がまだマシ
  • 知らない所で人を傷つけるくらいならば黙っているほうが良い
  • 当事者以外の意見など不毛で、意見よりDoer(実行者)になれ

・・・等

SNSとの付き合い方、社会との関わり方という点で色んな議論があり、また自分の中での折り合いもある。

それらを踏まえて、自分が世の出来事に対して、どんなスタンスを取っていくのかというのは、人生の中では社会・他者との関わり合いこそがポイントであると思い至った身としては、考えなければいけない点であるように思われる。

ということで以下、なんで沈黙したくなってしまうのか、沈黙してて良いのか、について考えたことに関する雑感である。

続きを読む →

勢いは買ってでもつけろ

最近思ったことの雑感です。ネタが出来ると平気で1万字の記事とか書いてしまいますが、ブログってこれぐらいのテンションで書いても良いんだよなあ、なんてことを思いまして。

力が今必要無くても、必要な時に力が無いことに絶望しないために

今すぐ何か目標や野望が無い時に、頑張ったほうが良いと思いつつも、実際のところ頑張り続けることは難しいと思うのだが、一つ自分を駆動するのに上手く働く考え方がある。

「力」というのは必ずしも、自分の見えている未来で使うことになるとは限らない。世の中には偶然があり、予想も出来ない出来事が発生する。その予想外によって急に「力を持っていなければいけない」という状況になったりする。

例えば、仲の良い友人が事業を始めると言い出した。ぜひとも自分も一緒になってやりたいと思うのだが、案の定自分には十分な力がなく、せっかくのチャンスをものにすることが出来ず、自分の無力さ・努力を怠ったことを呪う。

例えば、自分に力があれば守りたい人を守れるのに、今の自分にその力は無く、自分の守りたい人を守れない。その無力さに打ちひしがれる。

全くもって計画通りに事が進まない人生において、自分が見えている未来だけで現在を確定すると辛い結果になりえる。そんなことを思うと「いつ必要になるか分からないけど頑張ろう」と思えてこないだろうか。

続きを読む →

人を襲う「物語の病」と『中二病でも恋がしたい』の叫び

私は“STORY EATER”だ。この世にある物語を味わうことが好きで、もはや「味わう」というよりも「貪っている」と言う方が適切かもしれない。それくらいに物語を愛し、物語が持つ力に惹かれ、多くの力をもらっている。

そして、物語の上に生きたいと願い、今この瞬間を大きな物語の中に位置づけようと努力をし、また自分も物語を生産する”語り部”になりたいとさえ思うようになっている。しかし、物語の上で生きようとすることは正しいのだろうか。

人間は「物語」が大好き

人間は無意識のうちに「ストーリーとしてどう生きるか?」という視点で、物事を考えるようになっている。知っている映画、アニメ、漫画、小説、過去の偉人たちの物語から影響を受けて、自分自身の人生を同じように物語になぞらえようとする。

「物語の主人公であったら、今の自分はどうするべき・どうあるべきなのだろうか」などと、自分がこれまでにインポートした物語をベースに考えることがある。或る一時点での出来事を、一連の物語の中に位置づけて扱うような言葉を人間は持っている。例えば「悲劇的な出来事」という言葉は、前提としてその出来事を一連の物語として見ているからこその表現である。文脈があるからこそ、ある一時点での出来事に多様な意味合いが生じてくる。

物語とは人の手によって創作されるものである。特定の意図や意思が込められて物語が生まれる。誰かの人生を物語とする際も、その人が半世紀超の人生全てを物語にすることはなく、その人生の一部をハイライト的に切り取って物語にする。そこには自分であれ他者であれ、必ず切り取る人間による「恣意性」が存在する。

我々は物語のテンプレートとして、人間に染み込みやすい、受け入れやすい型を保有している。例えば「起承転結」もそうだし「勧善懲悪」「Boy meets Girl」「貴種流離譚」など。大まかなフレームワークは既に存在し、そこにアプリケーションレイヤーで色々な語り部によって多くの物語が築かれている。

最近の映画もフレームワークレベルで言えば、過去の名作の焼き直しなんてことは少なくない。というか、人にウケる型はほとんど決まっているんだから、それに合わせない方が受け入れられない危険が多い。不思議なことに、同じ型であっても、多少の違いがあれば、受け手は興醒めすること無く、というか実は同じ型の物語であるということにも気づかずに、何度でも楽しめるものであったりする。

人間は遥か昔から神話や宗教を物語として作り、伝承し、文化や生活の中心に据えてきた。ユヴァル・ノア・ハラリは「異なる個体が同一の虚構の物語を信じることでホモ・サピエンスは繁栄した」と言っている。

現代においても、映画やアニメ、漫画といった物語は娯楽の中心であるし、ビジネスの場面でも、事業そのものやプレゼンテーションもストーリーに乗せると、理解・共感がされやすかったり、記憶に定着しやすかったりする。

それほどに人間と物語は切っても切り離せない関係にある。

『中二病でも恋がしたい』が言ってること

ラノベ原作で、京都アニメーションが2012年にアニメ化し、映画化もされた『中二病でも恋がしたい』という作品がある。以前、特に何も考えずに観始めたのだが、一期を観終えた時にふと自分の思想・人生に対する解釈とリンクした。

物語のあらすじ(※ネタバレ含む)

以下『中二病でも恋がしたい!』のあらすじ。

 高校生になった富樫勇太は、中二病だった過去と決別したが、入学式の前日の夜、自宅マンションの上の階から降りてきた眼帯をつけた少女と出会う。翌日、勇太は学校で彼女と再会。クラスメートになった小鳥遊六花は『邪王真眼』の持ち主と名乗る中二病で、勇太と半ば強引に「契約」を結び、勇太につきまとう。六花の後輩凸守早苗、昼寝好きの五月七日くみんも加わり、一同は同好会『極東魔術昼寝結社』を設立する。クラスメートの丹生谷森夏が入部を希望するが、彼女も元中二病だった。

夏休み、六花の姉の十花の計らいで、六花の帰省に付き合った勇太たちは、六花が父親の死を受け入れられず、自分の世界にこもっていることを知る。紆余曲折の末、勇太と六花は交際をはじめるが、十花が留学するため、六花は別居していた母親と暮らすことになる。六花は中二病を卒業しようと決意し、凸守と対立する。

六花は実家に帰るが、『邪王真眼』を受け継いだくみんから、六花が中二病時代の勇太に出会い、心の支えになっていたことを聞かされた勇太は六花の元へ急ぐ。勇太は中二病の『ダークフレイムマスター』として六花の前に登場。六花は父親との離別を受け入れ、中二病であるありのままの自分に戻るのだった。

-Wikipedia『中二病でも恋がしたい!』より

「中二病」は悪いものか?

「中二病」とは基本的には揶揄の言葉、もしくは自嘲の言葉として用いられるネガティブな意味を持ったものである。本作でも初めの内は「中二病 =イタい自分 = 忘れたい過去」「卒業すべきもの」として扱われている。

しかし、要所要所で「中二病 = 悪いこと」という考え方に揺さぶりをかけてくる。例えば、

  • 部活で「全国を目指すぜ!」は中二病ではないのか?
  • 社会人で「世界変えてやるぜ!」は中二病ではないのか?
  • 「現実的」であることが正しいのか?
  • 夢の無い世界で生きることは果たして面白いのか?
  • 中二病は必ず卒業すべきネガティブなことなのか?
  • 人の心を支える中二病であっても離別すべきものなのか?
  • 中二病であることに恥ずかしさがあっても害はあるのか?
  • 中二病の症状は分かるが根源的に中二病とは何なのか?
  • 最後のナレーション「人は一生中二病なのだ」その言葉の意味は?

などなど。中二病とは何か?中二病とは悪いことなのか?この辺りの中二病観と、今回のテーマである「物語」が非常に密接に関わっていることに気がついた。

「中二病」とは「物語ること」

私にとって「中二病」とは「物語の中に生きようとすること」である。

初めに述べた通り、人間は物語が大好きで、皆が物語の中に生きようとしている。だから私にとっては、作中内でナレーションも言ったように「人は一生中二病」だし「人類皆が中二病」であると考えている。

生きようとする物語の中身によって「この物語は中二病」だとか「この物語は中二病」じゃないとか、どうこう言うことは出来ない。共通で納得ができる境界線を引くことは不可能だ。

  • アニメや漫画は中二病だけど、同様にフィクションである宗教を信仰している人は中二病ではないの?
  • なぜ「宗教」を信仰しても中二病と言われないのに、「アニメ」や「漫画」を信仰すると中二病と言われるのか?
  • なぜ”神”は信仰して良くて”ダークフレイムマスター”を信仰しては揶揄されるのか?
  • 所謂「ノンフィクション」も人の恣意性が介在して切り取られているという点では現実とは言えないのでは?ドラマや映画と何が違うのか?

なんてことに反論し、誰もが納得できる境界線を引くことはできない。

作られた時間の幅のある一連の物語に自己を位置づければ、それは立派な中二病だ。誰かに憧れたり、自分のサクセスストーリーやライフプランを思い描いたりして、その中に位置づけて今を生きていれば十分に中二病である。

「自意識過剰の病」からの治癒は「社会的な死」である

作中では中二病を「自意識過剰の病」とも言い換えている。

自意識過剰とは、人が他に対して自己を意識し過ぎた状態。

-三省堂 大辞林

「過度に」という言葉がつくと何事もネガティブになる、というかネガティブにするためにその言葉をつけているので、結局何も言ってないんじゃないの、って思うのであるが、ええ、さて。

自意識とは、つまり「自己の外と中のつながり」ということになる。そのつながりを過剰に意識しすぎると、ちょっと風変わりな行動に走ってしまう、ということなのであるが、逆に「誰も自分を見ていない」という考え方も非常に危険であるように思う。

自分が外とのつながりを有していない時点で、自分は存在していないことと同然になる。友人の言葉を借りれば「関係性は本質に先立つ」だし、「観測は本質に先立つ」とも言える。

他から認識されない存在に本質も何も無い、ということだ。

自分以外の存在と、その主体による自己の認識・観察によって、初めて自分という存在が認めてもらえることなる。他との関係を持たない人生は、自己が幸福だろうが不幸だろうが社会には±0で、どこまでいっても何をしても自慰行為の範疇を出ない。

自意識過剰であることを止め、つながりを希薄化させることは、それはそれで社会に対しては非生産的であり、しっかりと他者・社会と繋がろうとすることで社会に対して生産的となる、ということを忘れてはならない。

「自意識過剰」の言葉が独り歩きして、言葉のネガティブなイメージだけが残っているのがよろしくないように思う。「自意識無い人、逆に大丈夫か!」って感じ。

「中二病」と「恋」の対立

中二病 “でも” 恋がしたい、というタイトル。「でも」という言葉が使われるということは、本来「中二病」と「恋」が相容れない対立する要素であることを示している。

ても(でも)は、未成立の事柄を仮定条件として述べ、その条件から考えられる順当な結果と対立する内容の文へ結びつける意を表す。たとえ…したとしても。「失敗してもあきらめはしない」「煮ても焼いても食えない」

- デジタル大辞林

では、中二病と恋はどのように対立しているのか?

これは私の解釈、もしくは制作側も同様に考えた上でのタイトルの可能性もあるが、恐らくは深読みのし過ぎ・もはや曲解だとは思っている。

先にも述べたとおり「中二病 = 物語の中に生きようとすること」であるとすると、物語と対立する概念は「生きること」だ。

しかし選ばなければならない。生きるか、物語るかだ。

-ジャン・ポール・サルトル『嘔吐』

皆様には「一目惚れ」のご経験はあるだろうか。読んで字の如く、一目見て相手に惚れて恋に落ちる、ということであるのだが、この言葉はまさに人間が「生きている」ということを表すものであると思う。

一目惚れには物語・文脈は存在しない。見た”瞬間”に恋を感じる。決して物語らない。その瞬間に相手に恋をしているという確固たる”今”。恋とは「物語」と対立する「今この瞬間」を表す。

恋の解釈は人によって異なるので、人によっては全然対立する概念などでは無いのかもしれない。ストーリーで恋をする人もいると思うのだが、自分にとっては一目惚れの方が馴染み深く、分かりやすい。

アニメとかで「それは恋だよ」って親友に言われて自分の好きという感情に気づく主人公という描写に「うおいこのやろう!早く気づけよ!!」とか「いや分かるだろがい!そもそも感情として固有・特殊じゃないか!!」って、ツッコみたくなってしまうことが多い。いつ観ていても、もどかしい。

まあ『中二病でも恋がしたい』での恋は一目惚れでは無く「好きということに段々と気づく」タイプなのであるので、このタイトルの対立は成立しないのであるが、その辺りは「父が死んだ現実を受け入れられなかった六花が初めて中二病全開のゆうたを見た時に救われた」という設定があるので、それを「恋」だと都合よく解釈するとして。ええ。

なので『中二病でも恋がしたい』とは、言い換えると

「物語っている」でも「生きたい」

ということになる。

人間は生きており、物語っても満ちることは無い

「中二病でも恋がしたい」は「物語っている」でも「生きたい」で、それは相容れることの無い対立する二つが自己の中の戦っているということである。

まず、現実的に見れば、未来・過去を感じることは誰にも出来ず、皆今を感じることしか出来ないという点で、人間は全員が「生きている」訳で、その制約から逃げ出すことは出来ない。

しかし、人はその”今”を物語の中に位置づけることで、意味を見出そうとする。結末を持ったストーリーとして、結末に向かって意思を持って進んでいこうとする。

人が生きているときは、何も起こらない。舞台装置が変わり、人々が出たり入ったりする。それだけだ。絶対に発端のあった試しはない。日々は何の理由もなく日々につけ加えられる。これは終わることのない単調な足し算だ。

-ジャン・ポール・サルトル『嘔吐』

単純な足し算として生きることを嫌い「物語ろう」とする。しかし物語のクライマックスやピークを過ぎれば、また否応なしに「生きる」ことへと戻ることになる。また単純に生きることを避け、新たな物語を探す。しかしどんなに物語っても、これを繰り返すだけだ。「生きている」という現実に我々はいる。

もちろん物語が人間にとって欠かせないことは全く否定しない。物語は時に生きる力をくれる素晴らしいものだ。しかし、物語に依存してはならない。ずっと物語に逃げ込んではいけない。

結局は、今という瞬間しかあり得ない。人生とは「今」の連続であることを受け入れなければならない。意図や意思を持って、切り取られた物語に自分の人生を重ねようにも、自分の人生を切り取ることは出来ず、また自分たちは現実として「物語る」のではなく「生きている」のであるから、永遠に物語になることは出来ない。

誰も、人生を結末に向けたハイライトとして生きることは出来ない。物語には描かれないような、つまらない瞬間、平凡な瞬間が生きることの中にはある。それを受け入れなければいけない。

物語と比較して「自分の人生はつまらない」と考えても仕方がない。そもそも「生きる」ことは「物語」と異なる性質のものであり、その比較はApple to Apple にはならないのだ。

本来的には物語ではなく「今生きている」という感覚にこそ、素晴らしさがある。しかし、昨今の大量の物語コンテンツ消費社会は、それと逆行する流れであり、物語を愛する自分も絶賛それに流されている訳である。

甘い蜜のような物語をどんどんとメディアが意図的に創り出している。TVを観ていると「物語が無いことはつまらない、意味がない、放映する価値がない」とまで思われるようになっている節さえある。こうして人類の中二病(=物語に生きようとすること)がどんどんと重篤化していく。

けど、終わりのない「物語」の欲求の中であっても、やはり「生きたい」し「生きなければならない」のだ。その葛藤と、本来目指すべき先(=生きる)を思い出させてくれる言葉こそが「中二病だけど恋がしたい」なのだと私は思う。

爆ぜろリアル! 弾けろシナプス! バニッシュメント・ディス・ワールド!!

- 小鳥遊 六花

物語という不干渉フィールドに逃げ込むことなく、今という現実に生き、戦わなければ。

シン・シソウ | 虚無感と無意味さを超えて

高校~大学~社会人と進むにつれ、色んな経験やインプットから新たな知識・考え方を吸収し、自分自身の考え方も変わってきた。一方で考えれば考えるほどにアウト領域でのドツボにハマり、答えの出ない問い、深く考えてもあまり意味が無い問いであっても考えてしまうような状態もあった。

その結果、虚無感や無意味感、答えが出ないこと対するモヤモヤを感じ続けてきた。しかし、最近になって良い形で、分かっていながらも長年自分で自分の首を絞め続けてきたアウト癖を乗り越え、自分の中での思想を次のステップに進められたような感覚を得た。

得たのは「この世界でどう生きるか」の1つの解

生じた変化とは、この世界でどう生きるかという事について、誤った選択肢を捨て、正しい論点が設定が出来た、ということである。

もう少し言葉を加えると「今まで自分が考えてきたことがなぜ無駄であったのか」について納得ができ、そこで「すべてに意味がない」という”虚無”に陥ることなく、では「何は考えるに値するか」について、論理的・経験的に納得できる形で、新たに生産的な目的設定が出来たことだと考えている。

具体的には「対他者、対社会という”関わり合い”の中でどう生きるか」が論点であり、特に「社会の実際的な問題解決にどのように貢献するか」が重要であるということに納得がいった。

(長々と時間をかけてこの結論、アイセッカーとしては”あれっ”という感じではある)

恐らくこれからも人間として色々な悩みを抱えることは当然あるだろうが、そこで非生産的な領域にスコープアウトすることは無くなるし、適切な範囲の中で悩めるようになるだろう、と思っている。

知識×論理×経験 ⇒ 大きな納得感

今回得たこの感覚は、色んな条件が満たされた結果としての状態だと思う。

「知識」として色んな情報に触れたこと、「論理」として様々な知識・情報を組み合わせて構築した枠組みや概念をなぞったこと、そして自分自身の「経験」として色んな感情に触れたり、トライが積み重なったこと。

結論自体は「当たり前」という感じだが、自分自身がそれを受容できるかというのが大切で、「知識」×「論理」×「経験」の3つが上手く噛み合って、受容に足るくらいの高い納得感が得られたということだと思う。一番大きいのは、大学時代で急に得た知識や論理に経験が追いつかず、頭でっかちになった所に、多少は経験が付いてきたみたいな感じだろうか。

以降は、自分がここ1年くらいで変化した「知識」「論理」「経験」などについて書いている。現段階では、色んなインプットがまだ食材として調理しきれておらず、形が残っているような状態である。(今回引用フェスティバルになっているのはそういうことである)

この辺りは今後じっくりと噛み砕いて自分なりの言葉に変えていきたい。

世界観をスクラップするときはビルドも一緒

『シンゴジラ』より

初めに心構えとして。自己の思想や世界件を入れ替えて新たにしようとする場合は、スクラップとビルドはセットにして行うべきだと感じた。イメージとしては「ビルドできないならスクラップしない」という表現が割としっくりくる。

スクラップだけして次のビルドができないと、精神的な拠り所や方針を失って不安定になる。そんな状態が続くよりは、現在の暫定思想をスクラップしないでおくほうがマシだったりする。

もし現在の思想に問題を感じてスクラップしたいと思うのであれば、ある程度代わりにビルドできるものがありえるのか、という点は抑えておいた方が良い。

例えば、民主主義の問題点だけあげて「スクラップしよう!」っていってスクラップしたけど、結局民主主義に代わってビルドできるまともな思想が無いと後で分かってカオスみたいな事態。これはマズい。

まあビルドできるものが事前にあるかどうかが分かれば苦労しないし、思想のアップデートなんて半ば自動的に無意識的に起きているものであるので、実際不可能に近いのかもしれないが「新たにビルドできるものが無いとスクラップしても辛い」という認識は持っておいたほうが良かったなと。

全ては受容の問題

そして”笑撃”のラストへ

実存系小説やSF小説(特にテッド・チャン)、あとはユヴァル・ノア・ハラリ3作を通じて「世の中全部奇跡・偶然だよね」ということに非常に納得できた。もちろんこれまでの人生経験も含めて、自分という存在の奇跡、人と人との偶然の素晴らしい出会いといった経験によって裏付けられている。

世の中全部偶然なんだから、となると「すべては受容の問題」であると見えてくる。

自分という存在にはそもそも必然性も無く、説明も出来ない偶然の結果、つまり”理不尽な存在”でもある。その一方で、自分に対して起きる世の中の理不尽が受容できない、という面白い性質がある。

そして論理を取り除いた所で、この世界は変わらずに存在し続ける。人間の言語に基づいて生み出す論理は世の中の説明にしかならず、その説明は物理的な世界に干渉しない。物理的な干渉によってのみ、世界には差が生まれることになる。

理不尽というのは、人間が受容できる・納得できるだけの論理が見出せない状態ということでもある。例えば、神話や宗教は合理的に信じられる証拠が無くても人々は信仰している。信じる人は「宗教は理不尽だ!」とは言わない。だから、結局は論理的であることも、人間が受容するための一要素でしかない。非論理的なことも矛盾も人間は受容できるように出来ている。

動物がかわいそうという理由でベジタリアンになる人が、生物であるはずの野菜は食べてOKとするのも、生物の中に自分が納得できるラインを引いているということであり、サイゼリアでエスカルゴが美味しく食べられるのも、虫もパウダーにしてしまえば食べれてしまうのも、食べているものは変わらない訳で、自分の中で受容できる形を模索している、ということだと思う。

なので、論理をこねているのは、受容できる理由を探しているに過ぎない。自分自身も「いかに生きるべきか」について、何か目新しい結論を求めていた訳のではなく、あくまで自分が受容できる論理・考え方・経験を探していた、ということなのだと思う。

物理世界と意識の独立性

ドラマ『オルタードカーボン』では、”スタック”に人間は意識をデジタル化して保存する

小説の『異邦人』や『嘔吐』、あとはSF『ゼロで割る』、ACTの本『幸福になりたいなら幸福になろうとしてはいけない』あたりが印象深い。自分たちが生きている物理世界と、自分という「自己意識」は独立していて、あくまで自己意識が物理世界に干渉するには、物理世界にある自己の肉体を通じなければならない。自己意識と肉体のつなぎ目は明確には分かっておらず、未だに哲学されていたり、自然科学的に研究されている。

自己意識における思考と自分の行動は独立であり、自己意識で考えたことが行動に移るとは限らない(ex. 「右手を上げる」と考えて「右手を上げない」ことが私たちには出来る)。

本来的には相手の自己意識や、相手の内部で何が起きているのかを、人間間で共通のルール「論理」を用いて、相互に理解しようとするのであるが、自然科学的なものを除いて、論理に筋が通るかの判断はその時代の常識や人間の常識によってバイアスがかかってしまう。「太陽が眩しいから~」のムルソーは実際には全然ある話だとしても大衆には理解はされない。

こんな状態で、人間の中の思考や論理に固執するのは、あまりよろしくない、という自分の中での理解が強まっていった。適度にほどほどに。

「哲学は解き終わった」という人たち

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』という非常に難解な本に触れた。内容の恐らく10%も理解できていないのだが、解説などに手を借りながら要旨は理解した(つもりになった)。

彼は自分たちが表せられる「言語」によって哲学の限界(境界線)を引き、自我・意志・倫理・価値・神といったもの(=哲学や宗教でよく扱われるテーマ)は論じることが出来ない範囲にあるので、黙りましょう、と言った。その証明ロジックは『論考』や解説書を読んで頂きたい。

これは「なるほどね!!!!」って感じ。

考えても仕方ないことを考えても仕方がない、ということを、20世紀最高の哲学書の1つから示され、自分が人生をかけて考えようとも、これ以上の結論に至れることは無いよね、ということで納得してしまった。

そしてもう一冊、命という身銭を切った哲学者、須原一秀氏による『現代の全体をとらえる一番大きくて簡単な枠組』の中でも「哲学は溺死した」と主張される。

人類の思想は以下の5×2の「思想」に大きく(厳密にはもっとあるとしている)分類され、思想に対して最終解答を出そうとした「哲学」は既にそれに失敗し、この枠組みの中で単なる各論に陥ったり、相互に批判を続けてきたにすぎないという。

個人主義ー全体主義

結果主義ー心情主義

③科学主義ー神秘主義

真実主義ーソフトウェア主義

肯定主義ー否定主義

そんな彼の結論は「もう哲学は溺死したので、不毛なこと続けていないで、目の前の現実世界を良くしよう」というものだ。

須原氏もウィトゲンシュタインから続く分析哲学を研究していたということが興味深い。だからこそ「哲学は既に終わっている」という結論からスタートしていたのかもしれない。

また『哲学の教科書』などを書いた中島義道氏も以下のような考えを持っているという。(wikipediaより)

「哲学はまったく役に立たず、自他の幸福を望むこととは無関係であり、反社会的で、危険で、不健全なもの」であり「それにもかかわらず哲学をしなければ死んでしまう全人口の1パーセント未満の人のためにのみ哲学を学ぶ「真の場所」を設置すること」を推奨している

このように結論付けながらも、皆それでも哲学をやっているという所で、哲学という活動が自身の一部にまでなっている方々なのだろうなと思う。

偉大な哲学者たちにこんなことを主張されたことに加え、考えても結局何も結論は出ないという自分自身のこれまでの経験によって大いに納得。「意味を模索することの無意味さ」については、知識×論理×経験によって受容の問題は解消された。

虚無に対抗するためにビルド

地獄へようこそ!

で、ここまでで言えば「思考しても意味ナッシング!Let’s 虚無 together!」なんて結論もあり得るのであるが、ここは自分自身の「この素晴らしい世界に祝福を!」的な体験(通称このすば体験)と、原始仏教や神話、あとはACT(Acceptance & Commitment Therapy)的な思想が上手くマージして、虚無を乗り越えるだけのものを、この世界に見出せたように思う。

幸福感や欲求には際限はない。幸福になっても、より高い幸福が欲しくなるだけである。だから人間の生活の質は人類の歴史を通じて確かに上がってきたのかもしれないが、幸福度でいえば別に大して変わっていないのではないか、ということを割と確信している。

よってこれからの未来も「人類の幸福」を世界の良し悪しの絶対的なパラメーターにはならないと考えている。その先にあるのは、満ちることの無い欲求という底なし沼での溺死である。欲求や幸福には執着しない方が良い。

人類そもそもが偶然の存在であることを忘れてはならない。野生の生き物を見て「彼らは幸福になるために生きている」と思えるだろうか。驕ってはならない。人間も例外ではない。

その代わりにビルドするものとして「自己の感覚の存在」だと考えている。この世の中には、言語や論理を超えて脳を直接に乗っ取ってくるような圧倒的な美しさ、夜の河原を歩いている時にふと訪れる幸福感、理不尽や逆境を乗り越えて人々を奮い立たせるような雄姿、一方で時に味わう苦しみや悲しさがある。

そして人類という偶然×自己という偶然=MAX偶然の中で、それらを「美しい」や「苦しい」ということを感じられる、今感じているということの奇跡。本来隔絶された物理的世界と意識世界の自己の間で起きる共振は素晴らしいなと。

そこに人間であることのエッセンスと意味を見出すようになった。

自慰行為を続けても、この世界にいないも同様

ここまでの話は結局は「自分」という個人の中で、いかに納得できる答えを見つけるかという話で、あくまでの自己の中での折り合いについての話であったように思う。

しかし、自分個人における納得や虚無感からの解放とは、世界に何も差を生みだしておらず、それは一種の自慰的行為に過ぎないということになる。

上述の「意味はありません、終了です!」+「体感できる、素晴らしい!」で終わっていたら、自慰的行為・自己満足と言われても仕方がない。なんせ、自己の肉体の中でこれまでの悩みから解放されたところで(行動は同じという前提で)何も世界に差は生まれていない。

この点については、『アウトサイダー』のコリン・ウィルソンと立花隆の下記対談においても、その批判が挙げられている。(4:00あたり~)

個人も他者や社会とのつながりによって、自分が他者や社会によって生み出す影響によって、自分の存在を認識している。この点を今回のコロナ禍によって在宅を強いられる中で、特に単身世帯の方は、人間との対面でのコミュニケーションも激減し、そのように感じられた方は少なくなかったのではないだろうか。

そのつながりや影響がなければ、自分が幸せであろうがなかろうが、社会自体は何も変わらない。言い換えれば、別に自分という存在はあってもなくても変わらないという事になる。

しかしその一方で、社会に何か変化を生みだしても、すべては偶然のかけ合わせの”運”であるし、人の幸福を増やすことは出来てもその際限は無く、そこに内在された意味も無く、人間が外から意味を与えようとするだけであるという認識もあり、それによって改めて虚無を感じる点もある。

しかし自分の場合においては、自分が接してきたこの世界と人間の素晴らしさが優る。自分に不幸があって一緒に悲しんでくれる人がいること。そして自分に良いことがあって一緒に喜んでくれる人がいること。自己を中心に意味を見出すことは不可能でも、社会や他者との関わりの中では、十分な意味を”体感として”見出すことが出来る。

また、すべてが偶然で生産的であること・非生産的であること自体に意味がないとしても、自己の存在意義を他者・社会との関わり合いによって体感的に得ていることで、自分は対他者・対社会に非生産的であることよりも、生産的であることに価値を感じられる。

特に、仕事の意味、人が働くことの意義は「社会への参加」にあると思うようになった。

ここまでのまとめ

こんな経緯で、論理の思考に基づいて自分の中に何か答えを見出そうとすることはあまり意味がなく「対他者、対社会という”関わり合い”の中で自分がどう生きるか」こそ、ちゃんと考えるべきだと思うに至った。

ここまでの流れを見るに、論理や知識だけであれば、おそらく虚無に負けていたところを、これまでの人生における経験でカウンターできた、ということだと思う。

人ごとに同じ結論に納得できるかどうかが異なるのは、結論が適用されているその人間という”コンテキスト”、知識×論理(思考の枠組み・フレーム)×経験が違っているからだということだ。

では、じゃあ対他者や対社会に絞って考えるべきとなった時にどうするのか、というのが後半パートの話になる。

世界には新たな「物語」が必要とされている?

「はーちくじーーーーっ!」物語シリーズより

ユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』で「ホモ・サピエンスは、複数の個体が共同の虚構を信じることによって繁栄した」と説いた。その虚構がキリスト教のような宗教であったり、資本主義といった思想であったりする。

受容の問題として考えると、人間は虚構を作り出し、それが人類に受容し続けられるかの試行錯誤を繰り返して来ている。人間が納得できない矛盾や否定、理不尽を抱えたままに活きることは苦しく、同じ結論であっても、納得できる・信じられるストーリーを人類は必要としてきた。

ボトムアップ的な物語

で、現在は資本主義×民主主義が世界的には多い枠組みではあるのだけれど、最近はポピュリズムに陥ると危険だとか色々と問題が挙げられている。

元英首相チャーチルが民主主義について以下のように言ったというのは有名な話だ。

… democracy is the worst form of Government except for all those other forms that have been tried from time to time.…

人類がこれまでトライしてきた色んな政治形態と比べれば一番マシであるということだ。(ちなみにチャーチル自身もこの言葉は誰か引用しており、その起源は不明であるようだ)

この点、前出の須原氏も同様のことを述べており、民主主義×資本主義×科学主義は、人間の欲望を吸収するブラックホールと言いながらも、民主主義は多様な個に溢れた社会において最悪のケースを防ぐための最低限必要な枠組みであると主張する。

須原氏は、ポル・ポト政権の元幹部の話を注記に挙げている。

「カンボジアで大虐殺を行ったことに後悔は無いか」と特派員が元幹部に露骨に尋ねると「悔いが残るのは目指した理想を実現できなかったことだ。私は高潔な社会を作りたかった」と答えたという。

ここに人間の両面性、矛盾を持った性質を認めずに、ある思想・価値観に基づいて、良い/悪いを判断して白黒をつけようとする社会が構築されることの危うさを示している。

人類に共通の唯一絶対の真理や正義の証明には、既に哲学が失敗しており、”最もマシなもの”以上の思想はビルド出来ないので、残りは「消極的場当たり的な問題解決」を行っていくしかない、とされる。

場当たり的問題解決とは「人間にとっての共通の正しさは揃えられないが、直感的な正しくなさは割と揃う」という性質に基づいて、起きる問題を個別具体的に逐一問題を解決し、ボトムアップ的に前進していくということだ。

この点、私は「いや直感で不正義とか不真理とか本当に揃うんかなあ」とやや懐疑的でもあるが、理想ドリブンが不可能である以上、場当たり的に解決するしかないというのは消去法的には納得が出来る。

この点、トルストイ『アンナ・カレーニナ』にて「幸福な家庭はすべてよく似たものであるが、不幸な家庭は皆それぞれに不幸である」という有名な言葉が思い出され、直感的に須原氏と反対っぽいことを言っているので面白いと感じた。

ただ須原氏は概念の話、トルストイは概念が生活に具現化されたレベルでの話をしているので、食い違ってはいないのかなと思うし、別にどちらが正しいとかそういう話でも無いのかなあと。

SF的野心的な物語

で、結局場当たり的対応しかできず、新たな物語を作ることは出来ない、ということであったが、須原氏が先の本を書いたのが2005年であり、そこから15年が過ぎ、新たな物語が見えてきているのではないかと思う。

それは、人間ではなくアルゴリズムによって「正しい/正しくない」を判断させるという「データアルゴリズム主義」という思想だ。分かりやすく言ってしまえば、アニメ『PSYCHO-PASS』に登場する「シビュラシステム」である。

「シビュラシステムが決めたこと=正しいこと」ということにしてしまう。

シビュラシステム

既にAIのアルゴリズムも人間に理解は不能になっている。アルファ碁の指し筋はプロ棋士にも理解が出来ない。プロセスをAIにすることにより、人間には理解できないように意思決定プロセスをブラックボックス化することで、人間にとっては公平性が生まれる。人間では唯一絶対の真理を生み出すことに哲学は失敗したが、これを人間を超えて、そして第三者に委託することで乗り越える。

私はこれは人工的に作り出す「神」でもあるように思う。既に人類の大半はデータ・アルゴリズムの恩恵を受けてそれに慣れつつあり、既に”信者予備軍”くらいにはなっているのではないか。

生活での具体的な功利を生み出し、人間の誰にも理解ができないことで公平性が担保されるという点で、民主主義に代わる候補としては最も有力であるかもしれない。一方で人間性の消失など、種や哲学的な論点を孕んでいるものでもある。

だから後は、初めにも述べた通り「受容できるか」の問題である。

オーバーロード

A・C・クラーク『幼年期の終わり』にはオーバーロードという宇宙人が登場して地球を支配する。こういった超越的な第三者による統治の元に安定的な繁栄が成立するのかもしれない。そしてこれが宇宙人であるよりは、生物ではない「機械」の方が人間の被支配者的な印象は弱くなり、受け入れやすさはある。(もちろんに存分に論点はある)

ハラリもこのままいくと、データ・アルゴリズム教が主になり、更に人類最大の課題である「自己意識の謎」や「死の超越」にも、科学を持って干渉することで、ホモサピエンスという種を超越し、ホモデウスが生まれるといった。そして全ての人間がホモデウスになれず、人間と猿のような”種レベルでの大格差社会”が発生する可能性をハラリは主張する。

これらはあくまで選択肢ということで、まだ選択権は人類が持っている。人類は改めてどういった方向性に進むのか、各々の思想に従って具体的に行動し、自身が望ましいと考える未来に軌道修正していくことが求められている。

今回のまとめ「で、どう生きるの?」

これら踏まえて「あなたどう生きますか?」という所で言うと、ひとまず具体レベルは置いて、

  • 自己のどうこうについて執着しないこと
  • 他者や社会に対して積極的に関わること
  • 問題と感じたことに対する問題解決を進めていくこと

なんだろうなと思う。

結論としては目新しさも何もないんだけど、ちゃんと納得できるくらいに、そして生き方の方針になる程度のものがビルドでき、自分の中では一つ壁を越えたなという感覚がある。

この辺りは結局他者と比較しても仕方がないし、自己の個別文脈に落とせることが大切で。なので、ここまでの思考ジャーニーには十分に意味があったように思う。

アベンジャーズ・エンドゲームで以下のようなセリフがある。

大義の為に個人の幸せを諦める必要はない

大義と個人の幸せが二項対立でなく、100% or Nothing でもないことも理解の上で、今回の自分の結論としては「大義(=自分という範囲を超えた他者や社会といった主体)」にこそ、自分が受容できる有意義な生き方がある、ということだったと思う。

これからは、より良い他者・社会との距離感、関わり方を模索していくことにしたい。

『恋はデジャ・ブ』が示す思想

※以下、映画『恋はデジャ・ブ』のネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。

先日観たビル・マーレイ主演の映画『恋はデジャ・ブ』が非常に良かった。物語のジャンルとしては、今どきの映画・アニメでは珍しくない、いわゆる「ループもの」である。

有名な所では『オール・ユー・ニード・イズ・キル』や『ミッション:8ミニッツ』『STEINS;GATE』『リゼロ』『まどかマギカ』などだろうか。

最近のループものは構造として、悲劇的な未来を避けるために主人公が頑張る、という大筋のストーリーが主で、好きな人や大切な仲間を助けることが主人公の動機になっている場合が多い。(シュタゲでは牧瀬紅莉栖、まゆしぃ、リゼロだとエミリアたん … etc)

ループの条件が「死ぬこと」の場合も多く「死んでもあいつを守る!」というピュアな動機に突き動かされる主人公に共感しやすく、素直に応援したくなる物語の構造なのだと思う。

続きを読む →

「論理さん」との上手なお付き合い入門

近頃本を読んでいると、現実世界と自己・意識の関係について書いているモノが多いと感じる。私が無意識的にそういった本をチョイスしている、またはそういう風に読み取ってしまう・読み取りたいバイアスが掛かっている部分はある。

自己と世界を考える上で論理が欠かせない。人間はこの世界を論理によって紐解き、理論として体系化する。そして生み出した理論に基づいて、この世界に上手く干渉しようとしてきた。事実それによってこの世界は大きく変わっている。

だから、人間の理解の通りに世界が動いている、なんて思いがちなのだが、でも本当にそうであるかというのはすごく怪しいなあというのが最近思うところである。今回はそんなことを書いています。

続きを読む →

社会人に適した効率的な学習方法 概論

main_visual

「学ぶこと」は「生きること」

と言っても過言では無いのではだろうか。人間はこの世に生を受けてから、常に(意識的にも、無意識的にも)何かを学び続けている。

「学ぶこと」に対する欲求は、三大欲求にも並ぶ、人間の根源的な欲求であるようにも思う。

現在我々が書を読んで得られる知識には、人類が長い歴史の中で探求、獲得、体系化してきた過去があり、それが人類として積み上がってきている。

それを中学・高校時代なんかは、数学の公式が初めから分かりきっている当然のことのように思い、実はその裏には、その公式を証明するために人生をかけてきた数多の数学者がいることを、全くもって理解していなかった。ごめんなさい、本当に。

人類にとっては、何かを学び、その学びを結晶化してアウトプットすることは、自分の死後も人類という種の生存確率を高めるための一つの営み、とも考えられる。そういった訳で、知的好奇心は人類にとって切り離せないものになっているのではないか。学ぶことに対する関心が高い人は多いはずだ。

続きを読む →

主人公とNPCの二足の草鞋 | 信じられる対象の必要性

コロナウイルスの影響により今週一週間は外に出ず、ほとんど家の中にいたのであるが、その中で感じていたのは「生きているとは一体どういうことなのだろう」ということだった。ああ、なんと唐突な。恥ずかしい。

何を今更そんな青い問いを、と自分でもツッコまずにはいられないのであるが、自宅守護によって生じている他者との直接的なコミュニケーションの欠如(やっぱり電話と対面は違いますね)と、日々扱われるコンテンツは違えど同じ型が繰り返された一週間は、先の様な青い問いを想起させるのに充分であった。

今日より明日が良くなるという「希望」

ヴィクトール・フランクル『夜と霧』において描き出された極限状態における人間の行動は、人間が生存のために本当に必要なエッセンスを提示する。強制収容所の絶望的な状況を生存した人と、そこで力尽きた人との大きな違いは「明日に生きる希望を持てたか」ということであった。

「今日より明日が良くなる」ということを感じることが出来る人間にとっては、今日を生き延び明日に向かうことに意味がある。しかし、その希望とは何から生じるのであるか。何を根拠に明日は今日より良くなると確信できるのであろうか。

その一つは「夢」「野心」の存在であると思う。自分自身が思い描く夢の実現に対して、毎日少しずつでも近づいていることの実感を得ることができていれば、また明日も生きていこうと思うことが出来る。

ここでは、その夢の実現可能性は全く問題ではない。重要なのは「自分が信じられる夢を描けるかどうか」ということであり、それが全くの虚構でもデタラメでも信じられれば何でもよろしい。夢が存在していること自体が生きる希望となる。

パウロ・コエーリョ『アルケミスト』に登場する「いつかメッカに巡礼すること」を夢見ている、とあるムスリムにとっては、メッカへの巡礼こそが生きる希望であり、本当にメッカに巡礼することは彼にとって生きる希望を失うことに他ならない。だから、彼は今年も巡礼しないし、10年後もきっと巡礼しない。「希望」を持てることに合理性も根拠なども必要なく、それを本気で叶えようとしているかということさえも関係なく、信じることが出来るか、ということに尽きる。

続きを読む →

既に完成された幸福と不純物 | ぬるっとした幸福論

一年間で最も散歩に適した季節の到来。今日の最高気温は20℃であることを知り、上着を持たずに出かけてみようと、私の心は冒険気分になる。都内の海の見える公園で約束までの時間を潰していると、30代前半くらいのお父さんが、まだまだ背丈の小さい子供とサッカーをしている姿が目に入る。

ボールを上から足でおさえるんじゃなくて、足の内側でボールを軽く止めてあげるんだよ

と、お父さんは説明する。ボールのトラップの仕方を教えているようだ。世のお父さんはみんなサッカーが出来なくてはいけないな、と思うくらいにはサッカーは子供にとって人気なスポーツだ。

その脇では、ベンチに腰掛けた女性がそんな二人の姿を眺めている。きっとこの3人は家族なのだなと私は思う。両親が自分たちの子供を見るその目には、愛と優しさ、そして子供の輝かしい未来に対する期待が映っている。 続きを読む →

「お前の人生はつまらない」による時間差攻撃とその対応について

社会人になって、漫画を大人買いする「癖」がついている。大半はブックオフで1冊100円になった、過去の流行り物(これは矛盾している)を読む。スタートからゴールまで一直線でノンストップで読み切れるのが心地よい。

それからは、現在も連載継続中の新しい漫画も読むようになった。今どきの漫画はテーマも多様で、どの作品も絵が上手い。最近の漫画はすこぶる面白い。

それで昨日。しばらくは買っていなかったのだが、ここのところ集中している日々が続き、それが落ち着いたのもあってか、昨日は無性に漫画が読みたくなった。

Amazonの欲しい物リストに読みたいと思った漫画はアドしている。過去作となれば、Primeで安く全巻セットなどが買えるのであるが、新作は定価なのでPrimeで買うメリットも特になく、その場で読めるKindleで買ってしまうことが多い。

色々迷った挙げ句、昨日は以下の作品を選んだ。

『ブルーピリオド』は、勉強ができる優等生である高校生の主人公が、藝大入試に挑戦するスポ(芸術)根漫画だ。今どきの20代(つまり自分みたいな人)には刺さるんじゃないか。

  • 天才ではない
  • やりたいことも分からない
  • 人の期待に応えるのは得意で八方美人
  • 社会的にはある程度のポジションを築いておきたい

みたいな、積極的なんだが消極的なんだかよく分からない理由ながら「自分は割とやれている方だと思うんだが」な人生を歩んできた人にとっては、主人公の感情・思考に上手く入り込めると思う。

『ブルーピリオド』を読んで感じたのは、その人が創り出すアウトプットには、その人の人生そのものが投影されるということ。逆に言えば、自分の人生にインプットされていない、つまり無いものはアウトプットにならない、ということでもある。

続きを読む →